ペリーとの交渉で通商回避を成功させた林大学頭

優れた交渉術だった。




 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。このときは国書を手渡しただけでしたが、翌年再び来航し、条約交渉が始まりました。アメリカ側は「親睦」「通商」「石炭等の補給」「アメリカ人漂流民保護」を目的としていました。日本側はまずは戦争にならないようにし、「通商」を避けたいと考えていました。交渉にあたったのは幕府応接掛で筆頭は林大学頭(はやしだいがくのかみ)(林 復斎(はやし ふくさい))で林羅山から数えて第十一代にあたります。儒学者朱子学者でもあります。このほか、井戸対馬守、鵜殿鳩翁(うどの きゅうおう)、儒者・松崎満太郎が任命されました。林大学頭は朝鮮通信使の応接にあたったり、オランダ国王の新書に漢文で返事を書くなど外交に携わっていました。

 さて、日米和親条約には「通商」は織り込まれていません。林大学頭はどのように交渉したのか。

ペリー「わが国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交の無い国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら帰国は人命を尊重せず、日本近海で難破船を救助せず、海岸近くに寄ると発砲し、また日本へ漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国人民をわが国人民が救助して送還しようにも受け取らない。自国人民を見捨てるようにみえる。いかにも道義に反する行為である・・・」

林大学頭「・・・我が国の人命尊重は世界に誇るべきものがある。この三百年にわたって太平の時代がつづいたのも、人命尊重のためである。第二に、大洋で外国船の救助ができなかったのは、大船の建造を禁止してきたためである。第三に他国の船が我が国近辺で難破した場合、必要な薪水食料に十分の手当てをしてきた。他国の船を救助しないというのは事実に反し、漂流民を罪人同様に扱うというのも誤りである。漂流民は手厚く保護し、長崎へ護送、オランダカピタンを通じて送還している・・・」

ここでまずはペリーは林大学頭の反論を受け入れ、自説を取り下げます。そして通商の話となります。

ペリー「では、交易の件は、なぜ承知されないのか。そもそも交易とは有無を通じ、大いに利益のあること、最近はどの国も交易が盛んである。それにより諸国が富強になっている。貴国も交易を開けば国益にかなう。ぜひともそうされたい」

林大学頭「交易が有無を通じ国益にかなうと言われたが、日本国においては自国の産物で十分に足りており、外国の品がなくても少しも事欠かない。したがって交易を開くことはできない。先に貴官は、第一に人命の尊重と船の救助と申された。それが実現すれば貴官の目的は達成されるはずである。交易は人命と関係ないではないか」

ペリーの人命第一を逆手にとった林大学頭の反撃です。これにはペリーは沈黙し、しばらく別室で考えた末に答えました。

ペリー「もっともである。来航の目的は申したとおり、人命尊重と難破船救助が最重要である。交易は国益にかなうが、確かに人命とは関係が無い。交易の件は強いて主張しない」

通商の回避は成功しました。ペリー自身は大統領の国書のほか、政府指示としてコンラッド国務副長官からケネディ海軍長官宛の書簡も受け取っており、ここでは(1)漂流民と難破船の救助・保護(2)避難港と石炭補給所の確保(3)通商、となっており、「通商」は三番目だったため、譲歩したと考えられます。しかし、なんらかの手は打ったという事実を残したかったのかペリーは清国とアメリカの交易を定めた条約文を取り出し、林大学頭に参考にと渡しました。

 ペリーは大艦隊を率いてやってきたわけですから、その武力を背景の強硬に「通商」を迫ることはできたはずですが、幸いにもペリーは論理を無視してまで力ずくで要求を呑ませるという粗暴な人ではなかったようです。

 ペリー艦隊の日本の法律を無視する測量や、抜刀、小銃発砲などの挑発行為、勝手に上陸して日本の防衛砲台に入り込むといった横暴にも日本側は隠忍自重し、戦争を避け、林大学頭の優れた交渉術により「通商」を回避できました。未曾有の国難にあたり、日本側は当初の目的を達成したのです。




参考文献
 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)
添付画像
 黒船来航(PD)

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