武士の質素な生活様式に外国人は驚いた

日本の武士階級は西洋の王、貴族階級とは全く異なった。




 幕末に来日した外国人は当然ながら日本人の生活様式に興味をもちました。庶民の暮らしはすぐわかりました。何しろ日本ではみな開けっぴろげで生活していたからです。

 スイス公使のアンベール(文久3年 1863年来日)
「神奈川街道を出、南西に行くと、ミシシッピ入江(根岸湾)に出る村道に続いている。どちらに出ても、あたりは畠に覆われ、小さな農家が点在していた。道路に近い独立した住家はもとより、集落をなしている家々ですら、その大部分は、風通しをよくしており、ほとんど開けっ放しになっていた。そのため、通行者の視線は、家の中を自由に眺めることができた。こういう条件の下では、住居の内部施設を知り、家庭生活の民族的タイプや風習を観察することは困難ではない」

 アンベールは今度は武士階級がどのような生活をしているのかを神奈川の奉行所のある高い丘から役人や地主の家と家庭生活の状況を観察しました。

「塀に囲まれて分離されている武士の家族たちの住んでいる中庭で私の見た彼等の風習や生活様式は下層階級の間で見たものと同じものであった」

アンベールは「日本の社会の階級的分類は、血統の差異や生活様式の差異を基礎にしたものではない」と気づきます。さらに江戸の愛宕山から大名屋敷を覗いて次のように述べています。

「大名屋敷または貴族の居館を、われわれは、誤って宮殿と名づけているが、(庶民との)その差は広さと長さに過ぎない。最も贅沢な点も、最も簡素な点も、同じような建築様式と同じような性格を持っている」

西洋では王、貴族といった階級は宮殿に住み、豪華絢爛な生活様式で庶民とは天と地ほども違うわけですから注目すべき点であったわけです。

 イギリスの外交官アーネスト・サトウ文久2年 1862年来日)も、やはり愛宕山から大名屋敷を覗いていました。

「そこ(愛宕山)から眺めたところによると、大名や旗本が御殿(パレス)のような邸宅に住んでいるというのは、全く誤りであることを認めなければならない。そこには、低い褐色の屋根と黒い板塀の、不揃いな塊が見えるだけだ。衆人がこれらの屋敷の家庭の様子をのぞくといけないので、愛宕山の上では望遠鏡の使用が厳重に禁じられていた」

サトウもやはり武士階級は御殿に住んでいると聞かされて、西洋の王、貴族のイメージを持っていましたが、それは崩されてしまいました。

 勝海舟などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育をおこなったオランダ海軍カッテンディーケはもう少し突っ込んでみています。

「上流階級の食事とても、至って簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人々とさほどちがった食事をしているわけではない」「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢(しゃしぜいたく)に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない」

 アメリカ総領事のハリスは将軍家定に謁見しましたが、将軍の衣服を見て「それは、想像されうるような王者らしい豪華さからは全く遠いものであった」といい、通訳のヒュースケンは「日本の宮廷は、たしかに人目を惹くほどの豪華さはない。廷臣は大勢いたが、ダイヤモンドが光って見えるようなことは一度もなかった」と述べています。

 江戸時代はよく武士が農民から搾取して贅沢をしていたようにいわれますが、それはマルクス主義史観の刷り込みであり、実際はとても質素な暮らしをしていたのです。質素を良しとする価値観の時代でしたし、「地位非一貫性」といって権力、威信、経済力が一手に握られることのない社会構造になっていました。武士は貧乏で、経済力は町人のほうがありました。武士は質素に暮らし、武家としての格式を保ち、火急の場合に庶民を守るため武芸を磨くなどして庶民の尊敬を集めて権力を握っていたわけです。とても外国人には理解しがたいことで、武士の生活様式を知って、それは驚いたことでしょう。



参考文献
 講談社学術文庫「絵で見る幕末日本」エメエ・アンベール(著)/ 茂森唯士(訳)
 岩波文庫「一外交官の見た明治維新アーネスト・サトウ(著) / 坂田精一(訳)
 平凡社「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 新潮新書武士の家計簿磯田道史(著)
添付画像
 会津藩武家屋敷(PD)

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