沖縄戦

勇敢に戦った沖縄県民を称える

沖縄県民斯く戦へり 大東亜戦争沖縄戦で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。 戦後の昭和45年(1970年)、12月20日、米兵が連続して起こした2件の交通事故と、MP(米軍憲兵隊)の威嚇発砲をきっかけに、5,000人を超える暴動が発生し…

郷土防衛軍斯く戦へり

我が命より尊い郷土、祖国。沖縄県民は勇敢に戦った。 昭和20年(1945年)3月26日から始まった大東亜戦争沖縄地上戦での日本軍はこれまでの様相を異にしていました。昭和17年9月に制定された「陸軍防衛召集規則」に基づいて昭和19年より在郷軍…

米軍は親切だったのか 〜 沖縄戦

米軍はやはり鬼畜だった。 大東亜戦争沖縄戦では住民が戦火に晒され、集団自決するなどの惨事がおきました。「米軍に投降すれば助かった」「鬼畜米英などのスローガンはウソだった」などという声を聞いたことがありますが、よく戦闘終了後に米軍と沖縄の子供…

先人を卑しめる「集団自決」軍命令説

沖縄メディアやプロ市民は先人を卑しめているだけ。 大東亜戦争沖縄戦で座間味島と渡嘉敷島で軍命令による「集団自決」があったというのは何も証拠がないことなのですが、こういう話を創り上げることは先人を卑しめていることに気づかないというところが、戦…

母の遺したものへの裏切り 〜 座間味島

母を裏切らなければ生きていけなかった。 昭和55年(1980年)、大東亜戦争沖縄戦のときの座間味島守備隊長、梅澤祐氏は宮城初枝さんと面会しました。宮城初枝さんは自身の体験談を「家の光」雑誌に寄稿し、その中で「梅澤部隊長(少佐)から、住民は男…

あの日、あのとき、あの場所で 〜 渡嘉敷島

あの日、あのとき、あの場所にいた人にしか許されないことがある。 昭和20年(1945年)、3月27日、米軍が渡嘉敷島へ上陸。住民はパニックになりました。 安里喜順巡査 「皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群集心理で半狂乱になっていますか…

愛国少年・愛国少女 〜 沖縄戦

国に命を捧げることは愚かなことか? 昭和20年(1945年)3月26日より始まった大東亜戦争沖縄地上戦では学徒隊(鉄血勤皇隊、ひめゆり隊、白梅隊など)が組織されました。 沖縄一中・鉄血勤皇隊、武富良浩さん 「被害者意識ばかりを強調するいまどき…

大田中将と牛島大将の最期

昭和20年5月末、大東亜戦争沖縄戦で日本軍第32軍は首里戦線を撤退します。小禄(現在の海軍壕公園)では大田実少将率いる海軍陸戦隊が32軍司令部の撤退を支援しました。6月5日に大田少将より次のような電文が本部に打電されます。 「軍主力の喜屋武…

牛島中将の思い 〜 沖縄戦

昭和20年4月1日からの大東亜戦争沖縄地上戦は5月27日、日本軍第32軍は首里戦線を放棄し、喜屋武(きゃん)へ撤退を開始します。このため南部にいた住民と軍がせまい地域に固まることになり、米軍の砲火を浴びることになってしまいました。当初、住…

首里戦線の撤退と南風原病院

大東亜戦争沖縄戦で昭和20年5月3日から日本軍は反撃にでます。しかし、これは大失敗に終わり、戦力が大幅にダウンしてしまいます。そのうち軍は喜屋武(きゃん)への撤退論が台頭します。第二十四師団は与那原方面を守備していましたが、強力な米地上兵…

闘将・牛島満と沖縄県民

牛島満は沖縄戦で有名で、アメリカ軍事評論家のハンソン・ボールドウィンは「太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとするならば、陸の牛島・海の田中」といわれているほどです。支那戦線でも「日本に牛島あり」といわれ、支那の蒋介石側のラジオ放送で…

手榴弾を持っていた民間人 〜 沖縄戦

大東亜戦争沖縄戦でひめゆりの手記などを読んでいると手榴弾を持っていたことがわかります。陸軍病院に勤務していなかった福地という生徒が兵隊と一緒に避難してきて二個の手榴弾を示し「覚悟はきめております」と、他の学友といっしょに死なせてくれという…

援護法がもたらした戦後の悲劇 〜 沖縄

沖縄県民斯く戦へり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを 昭和27年、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(略称、援護法)が制定され、軍人、軍属のほか、「準軍属」が補償を受けることになり、沖縄戦、サイパン戦などが対象となりました。沖縄の援護当…

ひめゆり証言疑問の回答

先日、琉球新報の記事に疑問を抱いたので、ひめゆり館にメールし、ひめゆり隊の方からお返事いただきました。以下簡略化して書きます。<1> 沖縄新報>陸軍病院で負傷兵の看護に当たり、飛び交う砲弾の中で水や食事を調達したことを紹介。「日本兵に『沖縄…

そして今年も「沖縄県民斯く戦へり」と言おう

本日は沖縄の慰霊の日です。沖縄戦でなくなられた方々のご冥福をお祈りいたします。今ある平和は英霊の方々の犠牲の上に成り立っており、私たちは生かされているのであって、この平和を守っていかなければならないと思います。 65年前の沖縄戦で沖縄県民は…

ひめゆりよ永遠に

昭和20年4月、大東亜戦争沖縄戦でひめゆり学徒隊は南風原の陸軍病院で勤務していましたが、5月25日に戦局の悪化をうけて移動します。翌26日、摩文仁村伊原へ到着。山城本部壕、波平第一外科壕、糸洲第二外科壕、伊原第三外科壕、伊原糸数分室壕(後…

ひめゆりを支えた人たち

大東亜戦争沖縄戦で「ひめゆり学徒隊」は南風原の沖縄陸軍病院に配属されていました。5月12日〜18日にかけてのシュガーローフの戦いにより日本軍は首里の防衛も困難な状態となり、24日には陸軍病院付近に米兵が出現します。25日には移動することに…

語られていた特攻 〜 沖縄戦

大東亜戦争で海軍は沖縄を決戦場と考えていたため多数の特攻機を投入しています。昭和20年4月6日より菊水作戦が開始され、海軍は約1000機、陸軍も900機投入しています。その前にも第一神雷桜花隊(桜花15、一式陸攻(母機)18)が出撃しており(…

大和特攻、沖縄へ

昭和20年(1945年)4月6日、天一号作戦(菊水作戦)により戦艦大和、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦八隻が山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃しました。 この大和特攻は沖縄島残波岬に突入し、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し、乗…

ひめゆり学徒召集

大東亜戦争の沖縄戦では師範学校および中学校の男子は防衛招集規則によって召集されました。そして二等兵に任命されます。女子師範学校および女学校上級生は軍属として陸軍病院・師団野戦病院に配属され、看護婦としての業務に従事します。男子生徒は178…

迫る恐怖 〜 沖縄

昭和19年(1944年)7月7日、サイパン玉砕。9月15日、米軍がペリリューに上陸。10月10日、沖縄空襲。この空襲は十・十空襲と呼ばれ沖縄本島だけではなく、八重山諸島、宮古島を含め沖縄全域に及びました。最も被害の大きかったのは旧・那覇市…

沖縄県民斯ク戦ヘリ

本日は沖縄の慰霊の日です。沖縄戦でなくなられた方々のご冥福をお祈りいたします。今ある平和は英霊の方々の犠牲の上に成り立っており、私たちはこの平和を守っていかなければならないと感じます。それから沖縄戦史を学んだきた上でもう一つ感じたことがあ…

沖縄戦 − 米軍の所業

1945年6月15日、沖縄戦も終盤。沖縄上陸米軍最高指揮官バックナー陸軍中将は日本軍に降伏を勧告します。ここでバックナー中将が戦闘観望中に日本兵に狙撃され死亡してしまいます。(日本軍の榴弾が落下して爆発し被弾説もある)戦闘を優位に進めてい…

沖縄へ向かった戦艦大和の使命

1945年4月7日菊水作戦において米軍機動部隊の延べ380機以上の航空機による猛攻撃を受け沈没した戦艦大和ですが、なぜこの作戦が行われたか、本当に片道燃料だったのか、諸説あるようです。一億総特攻の魁(さきがけ)として作戦が立てられた、沖縄…

沖縄では日本軍がいたところで集団自決が発生したのか

「日本軍がいたところは集団死が発生した」というのを聞いたことがあります。これは誤りで米軍が来たら投降するように日本兵が助言して助かったところ(ヌチシヌジガマ)もあれば、米軍の投降呼びかけに対して民間人が自決しようとしたところに軍人がいて刀を…

死線を越えた人たちの再会 - 渡嘉敷島

渡嘉敷村から送られた慰霊祭のスケジュールを受け取った赤松元大尉は出席の意向を伝え、昭和四十五年三月二十六日に那覇に到着します。そこで大ブーイングを浴びますが、村の人々とともにその場を後にします。 以前、「たかじんのそこまで言って委員会」で集…

苦しんだ果ての証言 - 渡嘉敷島

渡嘉敷島の集団自決について照屋昇雄さんが証言しています。戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった人です。座間味と同じようにやはり援護法に基づく年金や弔慰金の支給が絡んでいました。同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっ…

言えなかった真実「宮平証言」座間味島

宮平秀幸氏は座間味島の集団自決時の生き残りでしたが、その時の証言することを避けていました。その理由は集団自決は軍命令ということで座間味村は援護法の適用を受けて国から累計で億単位にもなる年金・給与金を受け取っていたからです。しかし、県民大会…

沖縄にスパイがいたのか

以前「たかじんのそこまで言って委員会」で沖縄集団自決のところで「スパイだといわれて日本兵に殺された人がいます!」と大声で叫ぶ人がいました。スパイは本当にいたのでしょうか。 「沖縄戦集団自決の謎と真相」で『沖縄戦における軍官民関係』(原剛)に…

持久戦をとる沖縄防衛軍

沖縄戦は本土決戦の準備のため時間稼ぎで持久戦をとったというのを聞きます。実際は最初から持久戦を考えていたわけではなく、当初は沿岸決戦を計画したようですが、1944年10月に米軍がレイテに現われたため、沖縄の第九師団が台湾へ異動してしまい作戦が成…