牛島中将の思い 〜 沖縄戦



 昭和20年4月1日からの大東亜戦争沖縄地上戦は5月27日、日本軍第32軍は首里戦線を放棄し、喜屋武(きゃん)へ撤退を開始します。このため南部にいた住民と軍がせまい地域に固まることになり、米軍の砲火を浴びることになってしまいました。当初、住民を島北部に疎開される計画をたてた八原高級参謀が危惧した「島民を主戦場と予想される南部地域にとどめておけば、砲煙弾雨の中を彷徨し、想像を絶する悲惨な結果になりましょう」と述べた通りになってしまいました。
 この撤退は八原高級参謀の発案を長野参謀の発案とした、という話があります。このころ、長参謀長は5月3日の攻勢に出た作戦が失敗し、ほとんど自らを職務停止状態にしており、参謀部内が正常に機能しなくなっていたようです。本来は首里城を枕に玉砕する予定でした。それでも知念地区を住民の避難地とし、同地に残置している混成旅団の食糧・被服の自由使用を許可しました。この指令は各部隊や警察機関・義勇隊の宣伝班、壕内隣組の手を経て、一般住民に伝達されました。しかし、伝達したものの県側の行政機関が分散しており、組織的な行動がとれず、徹底することができませんでした。また、米軍の進撃が早く避難民は軍と離れることに不安を抱き、軍のいる喜屋武半島へ避難してしまったようです。また6月上旬に牛島中将は米軍に知念地区の非武装化を提案しています。米軍も一旦それに同意しましたが、米軍の軍使が日本軍の狙撃兵によって殺されたため頓挫してしまいました。もうこの頃になると何もかもうまくいかないと言った感じです。それでも知念半島で住民1万程度が助かりました。この数をもっと増やせればと悔やまれます。
 
 牛島中将は撤退途中、目を覆うような惨状にしばしば黙祷を捧げ、手を合わせました。
「なぜ、このような惨状を事前に見通せず、軍参謀部の喜屋武半島撤退計画に安易な決済をあたえてしまったのか。軍司令官としての沖縄県民に対する責任をいかにしてまとえばいいか」

 この首里撤退については牛島中将に対して後世、厳しい意見があるようですが、牛島中将は部下の責任も自分の責任である、という考えを持つ人であるので、批判され、永遠に十字架を背負うことは本望でありましょう。
 しかしながら、航空参謀・奥田少佐によると沖縄県民の牛島司令官個人への感情は、敬愛の気持ちこそあれ、ほとんどと言ってよいほど、反感や怨嗟の声は聞かれなかった」と述べており、「沖縄に死す」の著者、小松茂朗氏も戦後44年たって沖縄出身の人に聞いてみたところ、敬愛の気持ちが消えていなかったと述べています。当時を知る人にとっては県民に声をかけ、一緒に泥んこになって防衛陣地作りをした牛島中将の印象、その姿の伝聞によるイメージが強く残っているのでしょう。
 
 牛島中将のお孫さんは教師になり、祖父のことを授業に取り入れていると言います。5年前の琉球新報に記事が掲載されてあるのを見つけました。故人に対しては功績のひとつも述べるものですが、例によって一方向の書き方になっています。牛島中将の心に従えば牛島中将を批判するのはかまわないと思います。しかし、もし沖縄戦のときに生まれていなかった孫に「十字架」を背負わせようとしているのであれば、書いた記者の人間性を疑わねばなりません。そもそも日本人にとって死者は神、仏です。死者に鞭打つ考え方はありません。死者に唾する文化は大陸の文化であり、現代に生きる人間に歴史のことで糾弾するのも大陸の文化です。日本は水に流す文化です。沖縄は大陸から思想侵略されてきているのかもしれません。



参考文献
 「沖縄に死す」小松茂朗
 「沖縄戦『集団自決』の謎と真相」『沖縄戦における軍官民関係』原剛
参考サイト
 「牛島満

文中に出てくる沖縄新報の記事
 軍抗戦「住民に犠牲」 牛島司令官の孫・貞満さんが沖縄戦語る
   http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-3345-storytopic-7.html

添付画像
 首里城での空手道大観 昭和13年(PD)

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