あの日、あのとき、あの場所で 〜 渡嘉敷島

あの日、あのとき、あの場所にいた人にしか許されないことがある。


 昭和20年(1945年)、3月27日、米軍が渡嘉敷島へ上陸。住民はパニックになりました。

 安里喜順巡査
「皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群集心理で半狂乱になっていますからね。恐怖に駆られて・・・この戦争に遭った人でないと、(この恐怖は)わからんでしょう。だから、しいて死ぬという、自決しようという、部隊が最後だということの○○(聞き取り不明語)を受けて、死のうという。私は今のままなら死ねないなあ、と言ったですがね」

 渡嘉敷村の住民はいったん集まって自決を始めましたが、友軍の機関銃を借りて死のうということになり、重傷者は置いておき、部隊へ行きます。

 富野稔少尉
「住民の方がなだれ込んで来られたのは、14時頃です。ニ中隊正面に、泣き叫びながら押し寄せました。アビ叫喚というのでしょうか。確実に弾着を連れながら、近寄って来ました。つまり、敵の弾を引き連れるようにしてきたんです。《兵隊さん、殺してください》口々にいいながら陣地へ入ってくるので、どうしようもありませんでした。まさに生き地獄でした」

 そして再び住民は深い谷に行き、自決を始めました。しかし、現在言われているような329人もの屍を見た人はいません。赤松隊長も連下少尉も一人二人しか見ていません。富野稔少尉のそばにいた田賀政視候補生が自決者を見たのは20人ぐらいでした。おそらく多くは米軍の追撃砲によって命を落としたものと思われます。329人という数は援護法適用のための水増しでしょう。

 自決現場にいた金城つる子さん
「真暗、深い山でしたけどね。そこの広場に何人いたかわかりません」
「残したら、また、敵の手にかかると困ると思って、もうみんな、うちの近い方々はみんなやっつけて行ったんですよ。大城良平さんの奥さんなんかも、うちの父がやったと思います」

 つまり、自決できぬので殺しあったということです。なんということでしょう。
 
 安座間ウシ、豊子の証言によると金城重明という後に牧師になった人が大きな棒を持って「まだ生きているか」と確かめながら、殴り殺し歩いているのを見ており、親子も殴られましたが、後に蘇生しました。

 沖縄集団自決については大江健三郎氏の「沖縄ノート」の出版差止め訴訟があり、このとき、金城重明氏が島民殺害を認めて法廷が騒然としています。「何人殺しましたか?」と聞いたら答えられず、裁判官が気の毒に思い、証人が言いたくないことをそれ以上問い詰めるな、と制止しました。

 しかしながら、赤松隊長を人殺しという沖縄論調に沿うなら、彼を糾弾すべきでありましょう。大江健三郎氏の「沖縄ノート」では赤松隊長を「屠殺者」と罵り次のように述べています。
自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨魁のまえで、かれはなんとか正気で生きのびたいと願う」

 さらにアイヒマンナチス親衛隊)が逃亡から法廷にでるまでを引き合いに出して、赤松隊長が那覇に来たことを重ね合わせて「沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうか」と書いています。軍命令という証拠は何もないに関わらず、このようなひどいことを言っているのです。では大江氏は多くの住民殺害が明らかな金城重明氏に対してはそれ以上に罵ることはできるでしょうか。それは出来ないでしょう。GHQフランクフルト学派憲法九条信者の大江氏は単に軍を否定したかっただけだから。沖縄論調もしかりでしょう。

 大東亜戦争沖縄戦渡嘉敷島で金城重明氏が行ったことを含めて起こったことをそのように罵倒できるのは、あの日、あの時、あの場所に居た人だけが許されるものでありましょう。



参考文献
 WAC「沖縄戦渡嘉敷島 集団自決の真実」曽野綾子(著)
 PHP「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
 岩波新書沖縄ノート大江健三郎(著)

添付画像
 渡嘉敷島のビーチ Auther:Kennosuke Yamaguchi

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