援護法がもたらした戦後の悲劇 〜 沖縄



沖縄県民斯く戦へり
県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを

 
 
 昭和27年、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(略称、援護法)が制定され、軍人、軍属のほか、「準軍属」が補償を受けることになり、沖縄戦サイパン戦などが対象となりました。沖縄の援護当局は「戦闘協力者」という広い概念で一般住民約9万4000人のうち、約5万5千人が「戦闘参加者」として処遇されます。これは大田中将の「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」という言葉があったからと言われています。当初は一時金でしたが、昭和29年(1959年)以降は「遺族給与金」というかたちで年金化され、昭和48年(1973年)以降は軍人軍属の「遺族年金」と同額まで引き上げられます。現在(2007年資料)では年金受給額一人約200万円で死者5人分の1000万を受け取っている遺族もいます。
 
 この援護法適用には「軍命」の存在が欠かせない要素となっています。琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さんは渡嘉敷の自決事情を調査したが軍命令とする住民が一人もいなかった。そこで玉井喜八郎村長と相談して自決者への法適用には困難があるので、守備隊の赤松隊長に「自決命令書」を書いてもらうことになったと述べています。
 
 こうした「便宜」がなんと「軍命による強制自決」として赤松隊長が糾弾されることになろうとは、照屋昇雄さん自身、思いもよらなかったでしょう。照屋さんはは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と述べています。
 
 昭和45年(1970年)、赤松元大尉と生き残りの旧軍人、遺族十数名が大阪から渡嘉敷で行われる「25周年忌慰霊祭」に出席するため沖縄を訪れたとき、このように述べています。
赤松元大尉「この問題はいろんなことを含んでいるのでソっとしておいてほしいと言ったはずだ」
 
同行した連下氏はこのようなことを言っています。
「責任というが、もし本当のことを言ったらどうなるのか。大変なことになるんですよ。本当のことを発表しても、マスコミは取り上げないではないか」「いろんな人に迷惑がかかるんだ。(本当のことは)言えない」

 これらの発言には援護法に関することが裏にあることを匂わせています。
 
 玉井喜八郎村長も「ああいう状況(沖縄戦)の中で、すべてを個人の責任として避難するのもいけないのではないかと思う。この問題はあまり触れなくてもいいと思う」と述べており、ここにも触れられたくない何かがあるような発言です。それが「援護法」を指していることは今となっては容易に想像がつきます。

 島民と赤松部隊の交流は毎年続きます。慰霊祭のあとは懇親会があり「陸軍海上挺進第三戦隊渡嘉敷村民懇親会」と呼ばれていました。そのうち5年おきとなり、関係者の高齢化にともない平成16年3月2日が最後の慰霊祭となりました。

 死線を越えたあの時、あの状況は、あの場にいた人にしかわからないものがあるでしょう。われわれは渡嘉敷の島民、赤松隊長とその配下の人たち、照屋さんの”こころ”を尊重すべきでありましょう。



参考文献
 「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」秦郁彦
   『集団自決問題の真実』秦郁彦
 「『集団自決』の真実」曽野綾子
 オークラ出版「沖縄とアイヌの真実」『渡嘉敷集団自決軍命令はなかった』皆本義博/但馬オサム
参考サイト
 WEB正論
   ■渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言 元琉球政府照屋昇雄さん
   http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0608/web-news0827-1.html

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 苦しんだ果ての証言 - 渡嘉敷島
   http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/16853519.html

添付画像
 渡嘉敷のビーチ  Author :TomazVajngerl
 
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反戦平和の島・沖縄の真実】照屋昇雄氏 証言[桜H21/9/28]
http://www.youtube.com/watch?v=IR12z1Fm4-4