ひめゆり学徒召集



 大東亜戦争沖縄戦では師範学校および中学校の男子は防衛招集規則によって召集されました。そして二等兵に任命されます。女子師範学校および女学校上級生は軍属として陸軍病院・師団野戦病院に配属され、看護婦としての業務に従事します。男子生徒は1780人、女子生徒は581人です。有名なひめゆり学徒隊沖縄県女子師範学校沖縄県立第一高等女学校(一高女)の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名で志願によるものです。ひめゆり隊のほかにも「白梅学徒隊(県立第二高等女学校)」「なごらん学徒隊(県立第三高等女学校)」「瑞泉学徒隊(県立首里高等女学校)」「積徳学徒隊(私立積徳高等女学校)」「梯梧学徒隊(私立昭和高等女学校)」があります。

 白梅学徒隊 中山きくさん
「家族に入隊するというと『行くな』と引き止められました。那覇市外が全焼した十・十空襲の直後だし、家族としては私を手元から離したくなかったのでしょう。でも、小学校から『お国のために』と教えられてきた愛国少女でしたから、こんなときに私たちが行かなくてどうする、と思っていました」

 ひめゆり学徒隊 宮里春子さん 艦砲射撃が始まった日
「先に年寄りを非難させ、父を防衛隊に送った母が、乳を飲んでいる妹をおんぶし、米一升を荷物にして、私にこうおっしゃるのであった。『お願いだから山原までいっしょについていっておくれ』と泣きそうになっては母はおっしゃっていた。
 私は生徒です、ときっぱり答え、心の中では私は両手をあわせてわびながら、母と別れたのであった」

 ひめゆり学徒隊南風原の沖縄陸軍病院に配属されます。当初は患者数も少なくそれほど多数の女学生を必要とせず、さらに生徒壕が超満員になったため、次々と生徒が集まってきますが、受け入れに窮し、とうとう先生がはせ参じた生徒に「あなたがたが国難にはせさんじる気持ちはよくわかる。しかし、壕はこの通り超満員だ。帰ってはどうか」と勧めます。言われた生徒は学友といっしょに働けない寂しさがこみ上げて、立ち去ろうとしなかったといいます。
 
 ひめゆり隊に待っていたのは地獄のような光景でした。病院壕の中は血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えませんでした。

 比嘉園子さん
「肩から指先までギブスをまかれている兵隊、気管をやられてたえずピーピーのどをならす兵隊、脳症を起こして真っ裸になってわめきちらす兵隊、およそ百人近く収容された薄暗い壕の中で、身の毛のよだつ思いであった」

 しかし、患者のやさしい言葉に、どんなつらいことでもしのうぼうと思ったと述べています。

「こんなになると(両手が不自由)、みんながうるさがって食事のせわしてくれる人もいないのです。学生さんが来てくれて自分はほんと助かりますよ」
「学生さんは親切でよい」
「ご苦労様、しっかりたのみますよ」
「あなたがたにまでこんな心配をかけてすまんですな。あとしばらくの辛抱です」

 治療が数日に1回となってくると患者も気が立ってきて「治療班のバッカヤロウ!いったい幾日になると思うんだ。包帯も腐っちまったじゃないか。手榴弾を投げてやろうか、ほら二個も持っているぞ」と正気の沙汰ではない様相をみせるものも居ましたが、包帯を取り替えた後、「やっと人心地つきましたよ。先刻はどうも失礼なことを言ってすみませんでした」とあっさり謝ったりしていました。

 現在、ひめゆり学徒隊は「かわいそうな犠牲者」、日本軍=犠牲を強いた加害者というイメージが刷り込まれています。しかし、ひめゆり隊の生き残りの方の手記からはそのような構図は見えてきません。



参考文献
 「沖縄戦渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦
    『沖縄戦における軍官民関係』原剛
    『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
 「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善
参考サイト
 ひめゆり平和祈念資料館 http://www.himeyuri.or.jp/top.html
 WikiPediaひめゆり学徒隊
 
 
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添付画像
映画「ひめゆりの塔」のスティール写真(PD)
 ひめゆり隊の生き残りの方の声「当時は恋愛どころじゃなかった。戦争ってそんな呑気なものだったのかと思われるのは心外」「映画にしても半分見てもうイヤだと思ったんです。川で水遊びするシーンなど、少なくとも私の記憶にはありません。あんなにキレイなものではありませんでしたよ」