持久戦をとる沖縄防衛軍

 沖縄戦は本土決戦の準備のため時間稼ぎで持久戦をとったというのを聞きます。実際は最初から持久戦を考えていたわけではなく、当初は沿岸決戦を計画したようですが、1944年10月に米軍がレイテに現われたため、沖縄の第九師団が台湾へ異動してしまい作戦が成り立たなくなったため内陸部の持久戦に変更し、大幅な配備変更が行われたものでした。
 「沖縄は本土のための捨石だった」という人がいます。私は異なった見方をしています。本土決戦は戦争に勝利するために存在している作戦計画ではなく、戦争を終わらせることができなかった場合、そうなると予測して準備しているだけです。身を切らして骨を絶つ作戦ではありません。フィリピン陥落によって南方との輸送が途絶えたとき、ここで戦争は終わっていることはいくらなんでも政府、軍部にはわかっているはずです。終戦のための表立った政府の行動としては1945年4月にようやく鈴木貫太郎海軍大将を首相にすえることができています。(終戦のための内閣)裏では1944年暮れよりソ連に仲介を依頼する工作を進めています。終戦工作が進まず成り行きで沖縄戦に入ってしまったと考えています。
 沖縄戦で悔やまれるのは米軍は圧倒的な戦力で上陸してきましたが、米軍の進撃が予想以上であったため住民の北部への避難が間に合わず、首里城あたりの住民を南部へ避難させてしまったことです。このため南部の喜屋武半島の狭い地区に多数の住民が避難したため軍人と住民が混在することになり住民は直接砲火を浴び、多大な犠牲になってしまったのです。この住民の損害が禍根を残すことになります。また、沖縄で防衛召集した兵(二等兵になる)や軍属、学徒などが犠牲になっており、このことが後にフィクション小説に描かれイメージを定着させたため偏った歴史観が定着したのではないかと思います。学徒で生き残った人の証言を読むとまったく違った歴史が見えてきます。


参考サイト:WikiPediaレイテ島の戦い
      http://www.okinawa-senshi.com/sousetu.htm
参考文献:「沖縄戦集団自決の謎と真相」秦郁彦
     「沖縄戦の真実と歪曲」大城将保著

広島ブログ クリックで応援お願いします。