母の遺したものへの裏切り 〜 座間味島

母を裏切らなければ生きていけなかった。


 昭和55年(1980年)、大東亜戦争沖縄戦のときの座間味島守備隊長、梅澤祐氏は宮城初枝さんと面会しました。宮城初枝さんは自身の体験談を「家の光」雑誌に寄稿し、その中で「梅澤部隊長(少佐)から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子供は全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった」と記載していました。

初枝「どうしても話たいことがあります」
梅澤「どういうことですか」

初枝「夜、艦砲射撃のなかを役場職員ら5人で隊長の元へ伺いましたが、私はその中の一人です」「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません」

 昭和20年(1945年)3月25日夜22時ごろ、女子青年団長をしていた宮城初枝さんは座間味村の幹部と一緒に梅澤隊長のもとを訪れ、自決のための爆薬、手榴弾、銃を所望しました。そこで梅澤隊長は自決しないよう、弾薬は渡せない旨を言い(梅澤手記)、村幹部等を帰したのです。

 宮城初枝さんは援護法適用のため梅澤隊長より玉砕命令が出たと証言し、更に「家の光」に寄稿したところ、入選となりましたが、昭和45年(1970年)に渡嘉敷島の集団自決の話が騒ぎとなり、座間味島の集団自決がクローズアップされることになったのです。そして初枝さんは苦悩し、梅澤氏に打ち明けたわけです。

 初枝さんはその後、自分の語りを娘(宮城晴美)に記録させこの世を去りました。宮城晴美さんは平成12年(2000年)「母の遺したもの」を出版しました。

 ところが、平成17年(2005年)に大江健三郎氏の「沖縄ノート」の出版差止め訴訟が起こると晴美さんは態度を一変します。証人として出廷した彼女は著書の主旨とは異なる論旨を陳述し、裁判官が驚いて「本当にそれでよいのですか」と念押しすることがあったといいます。そして「母の遺したもの」をあっさり改版したのです。そこには軍命令があったという証言を入れたり、母は玉砕命令を下していないと信じ込んだとか、玉砕は以前に決定されていた、という文章が加えられたのです。
 初版には「住民に<玉砕>を命令したのは梅澤氏ではないことを確信した」と書いていたのですが、新版では削って「住民の非業な死に対する梅澤氏の冷淡な対応に軽いショックを受けた・・・彼の様子には隊長としての責任の自覚がほとんど感じられなかった」と書き換えました。驚く変節ぶりであり、亡き母への裏切り行為です。

 おそらく、圧力がかかったのでしょう。沖縄では沖縄論調に従わないと生きていけないといいます。援護法適用のため偽書類を書いたことを証言した照屋昇雄さんは「口外すると沖縄では生きていけない。それこそ自決しなければならない」と語っています。
 「あばかれた神話の正体」の著者、鴨野守氏は沖縄の思想風土に疑問を呈する記事を書き続けていると、ある現職教育長に「怖くないですか?」と言われたといいます。小林よしのり氏を沖縄に呼んだ那覇市職員の高里洋介氏は上司に「君については課長に昇進もと考えていたけど、ダメだな」と言われたそうです。そして兄弟の縁も切れたそうです。沖縄大学教授の宮城氏は小林氏の「沖縄論」の案内役を務めたため、もそれまで関わってきた調査研究プロジェクトに居られなくなりました。

 生きるため仕方ないとはいえ、母の残してくれたものすら裏切らなければならなかった宮城晴美さんの胸中は察するにあまります。いつしか沖縄の言論空間が解放され、真実を述べれる時代が来ることを祈っています。



参考文献
 高文研「母の遺したもの」(2001年第二刷)宮城晴美(著)
 PHP「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
 小学館「SAPIO 2009 7/8」ゴーマニズム宣言『世界に暗躍する全体主義者』小林よしのり

添付画像
 沖縄県座間味村にある座間味島・高月山展望台からの眺望。手前が座間味港、対岸左側に阿嘉島が見える。Photo by Si-take. Sep.2005

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