迫る恐怖 〜 沖縄



 昭和19年(1944年)7月7日、サイパン玉砕。9月15日、米軍がペリリューに上陸。10月10日、沖縄空襲。この空襲は十・十空襲と呼ばれ沖縄本島だけではなく、八重山諸島宮古島を含め沖縄全域に及びました。最も被害の大きかったのは旧・那覇市(現在の那覇市の一部)で、市街地の9割が焼失して同市は壊滅し、市内の死者は255名にのぼりました。日本軍は米艦隊の集結はキャッチしていましたが、目的地はつかめず、当日レーダーで敵を捕捉していましたが、レーダーの精度が低く、報告は信頼されませんでした。

沖縄師範学校女子部教諭 仲宗根政善氏の記録
「10月10日の朝、ヨウジをくわえて井戸ばたに立っていると、高射砲の煙が西空の朝もやの中にポンポンあがった。朝っぱらから演習かなと思っていると、けたたましくサイレンがなりひびく。
 空襲だ!子供の手をひっぱって家庭防空壕に飛び込むや、たちまちズシンズシンと地響きが伝わる。正子、民子がおびえて私の顔を見つめていた。今の爆弾は1キロと離れていない。『学校へ出かけるぞ』と言ったが妻の返事はなかった。妻子を壕に残して思い切って門を出た。飛行機がひっきりなしに飛んで、道は歩けない」
 
 10月10日は軍ではちょうど図上演習があり、指揮官は一箇所に集まっており、兵たちには単に「演習」と伝えられていた為、朝からすごい演習と思ったようです。渡嘉敷の赤松部隊の赤松大尉は兵棋教育で那覇におり、旅館で空襲にあいました。
「女中に防空壕はどこかと聞くと、無いと答う。兵隊さん、どうしたらよいかと泣き顔なり。防空壕無ければ、詮方なし。勿論、逃げるところも不明。女中には、蒲団を被って大きな部屋で伏せているよう教えて、玄関に出てみれば、将官や佐官、5,6名立っていられる」 準備が整っていなかったことが伺えます。
 
 添付の写真は米国のライフという雑誌に掲載されたもので、ボーイフレンドが送ってきた日本兵の頭蓋骨を机上において、それを眺めながら手紙を書いているアメリカの少女です。10・10空襲の少し前に日本でも知られるようになりました。

「奇怪なるこの写真、これこそ肉を食い、骨をしゃぶる米鬼の正体・・・怒りの眼をかっと見開いて野獣の正体を正視しよう」

 当時、米の残虐性はインディアン虐殺やフィリピン虐殺など知られており、ライフの雑誌やサイパン玉砕の報、そして十・十空襲の無差別攻撃によって沖縄県民の恐怖は募っていったことでしょう。そして恐怖を克服するにはそれを上回る敵意、戦意を持つしかありません。沖縄のマスコミは「敵米獣にたいする憎しみ、憤りは日本一であるはずだ」「県民の戦闘はナタで鍬でも竹槍でも・・・」「鉄砲が無ければ竹槍でいこう、竹槍が折れたら唐手(空手)でいこう」と加熱し、年末の県議会では「われら一同協心、特攻精神を以って敵米英を撃滅」という宣誓を採択しました。
 
 昭和20年、ついに米軍がやってきます。前掲の仲宗根政善氏の記録では米軍の沖縄上陸前に卒業式を済ませています。主事室には戦局の推移を示した太平洋の地図を貼っており、職員の一人がサイパンを指でさし、手を震わせて「もうすぐですよ。いまにきますよ」と沖縄にサイパンから線を引いていたといいます。


参考文献
 「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善
 「沖縄戦渡嘉敷島『集団自決』の真実」曽野綾子
 「沖縄戦渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦
    『集団自決問題の真実 − 同調圧力に屈した裁判所』秦郁彦

参考サイト
 WikiPedia「十・十空襲」
 日本兵の骨を持ち帰る米兵 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/7371/siryou/2003_05_14_siryousyu.html#bone

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Battle of Okinawa 1 沖縄戦 1
http://www.youtube.com/watch?v=a7u7zdR8Sbs