大田中将と牛島大将の最期



 昭和20年5月末、大東亜戦争沖縄戦で日本軍第32軍は首里戦線を撤退します。小禄(現在の海軍壕公園)では大田実少将率いる海軍陸戦隊が32軍司令部の撤退を支援しました。6月5日に大田少将より次のような電文が本部に打電されます。

「軍主力の喜屋武半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地地帯に拠る(よる)わが海軍の奮闘により、すでに成功したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて小禄地区を死守し、武人の最期をまっとうせんとする考えである」
「ここに懇篤(こんとく)なる指導恩顧を受けた軍司令官閣下に、厚く御礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る」

 牛島軍司令官はこの電文を見て愕然となり、「武運尽きて玉砕するときは陸軍も海軍も一緒である」と打電し、何とか撤退させようとします。
 
 6月6日 有名な海軍次官宛決別電文沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文が打たれます。皇国も天皇も書いてありません、ひたすら「沖縄県民」のことを書いています。決別電文としては異例中の異例でしょう。
 
 6月13日大田少将と6名の参謀は自決。大田少将56歳。
 
 八重瀬岳方面の独立混成第44旅団は、14日までにほぼ全滅。主力の24師団も17日には組織的戦闘不能状態となります。住民の退避もままならず、米軍は無差別に掃討してきます。このころ、米軍は空中からガソリンを散布し、爆弾を投下し、軍民合わせて焼き殺すという、残虐極まりない戦法を展開しています。
 
 6月17日、バックナー米軍司令官からの降伏勧告が届きます。(11日発信だが届いたのは17日、18日バックナー司令官戦死)
 
 6月18日、組織的戦闘は不可能となり、最後の命令がでます。

「親愛なある諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに三ヶ月、すでにその任務を完遂せり。自今諸子、おのおのその陣地に拠り所在上級者の指揮に従い、祖国のために最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり」
「諸子よ、生きて虜囚の辱めをう来ること無く、悠久の大儀に生くべし」

これは長野参謀が起案し、「生きて虜囚の・・・」は長参謀長が加筆したと言われています。そして大本営に決別電報を打ちます。この夜、司令部では決別の宴が開かれました。

 21日、参謀総長陸軍大臣からの電文
「第32軍は、人格高潔なる牛島将軍の統率の下、勇敢敢闘実に3ヶ月、敵の主将、シモン・バックナーを倒し・・・」

 このとき司令部は初めてバックナー司令官の戦死を知ります。牛島司令官は「惜しい人物をなくした」とつぶやきました。

 軍司令官と参謀長は摩文仁の山頂で自決することとし、残存兵が山頂奪取に向かいます。なぜ、山頂だったのか?これは司令官自決を敵味方によくわかるようにするため、戦闘終結の表現という、牛島司令官の「意思」だったという説があります。しかし、山頂奪取はならず、洞窟の中で牛島司令官、長参謀長は自決。介錯は剣道五段の坂口勝副官。23日未明のことでした。
 牛島司令官と軍民一体の象徴だった沖縄師範学校長の野田貞雄は21日に戦死。島田県知事は消息を絶ちました。自決したと見られますが遺骨は確認できていません。轟という壕で自決したというのが通説のようで、戦前最後の沖縄県庁という言い方もされているそうです。島田知事の母校県立兵庫高校には石碑が建てられており、ちょうど沖縄のほうに向いているといいます。
 軍とともに行動した仲順よし子さんの話だと、牛島中将遺骸は摩文仁厳頭にシートをかぶせてあったといいます。仲順さんは線香をたき冥福を祈ったそうです。その三日後には既に遺骸はありませんでしたが、仲順さんはその場を立ち去ることができなかったといいます。
 
 
 
参考文献
 「沖縄に死す」小松茂朗
 「ドキュメント沖縄 1945」毎日新聞編集局 玉木研二
参考サイト
 WikiPedia「大田実」「海軍司令部壕」「沖縄戦」「島田叡」「沖縄師範学校

添付画像
 沖縄県の海軍慰霊之塔と海軍司令部壕資料館 著者:Ray_go


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