首里戦線の撤退と南風原病院



 大東亜戦争沖縄戦で昭和20年5月3日から日本軍は反撃にでます。しかし、これは大失敗に終わり、戦力が大幅にダウンしてしまいます。そのうち軍は喜屋武(きゃん)への撤退論が台頭します。第二十四師団は与那原方面を守備していましたが、強力な米地上兵団の進攻と艦砲射撃により壊滅寸前となり、南風原陸軍病院や軍の衛生施設が危険にさらされるようになります。そして5月25日に撤退命令がでます。
 第32軍の軍医部長、篠田重信少将は病院幹部のところに駆けつけ、膝をおり、床に手をついて、
「申し訳ない。この責任は必ず取らせてもらう」
と、侘び、落ちる涙を拭いもせず、言葉を続けます。
「重症患者でも動けるものは、なんとかして連れて行ってほしい。軍司令官閣下に、一台でも多く車をまわしてもらうようにお願いした・・・」

 既に24日には南風原陸軍病院付近に米兵が見えるところまで出現しており、病院内は騒然となっており、ひめゆり隊の引率教師、仲宗根政善氏はアッツ玉砕の悲惨な最期が胸に浮かんだ、と述べています。三千余命の患者を全員移動することは絶望的で、重症患者は最後の処置をすることが決定します。たのみの自動車も故障で来ず、運搬のための防衛隊も来ず、独歩患者を連れて撤退します。
 
 二十四号洞窟には独歩第15大隊第四中隊第一小隊の山本義中少尉が左腕切断、大腿部と頭部に重症を負い他の病院から南風原陸軍病院へ移ってきていました。このとき臨時看護婦の金城ヨシ子さんが付き添い、そのまま南風原陸軍病院に勤務していました。この山本少尉は置いていかねばなりません。しかし、金城ヨシ子さんはガンとして聞き入れません。
「私は小湾の陣地から、松田大尉殿に頼まれて山本少尉殿の看護に専念してきました。山本少尉殿は体も次第に回復し、精神的にも充実して参りました。それをいまさら見殺しにすることはできません。私の良心が許しません」
強いですね。金城ヨシ子さんは山本少尉をゲートルで撒きつけておぶり出発したのです。比較的元気な砂山上等兵が荷物を持って一緒にいきました。重症患者と行動をともにするということは、敵砲弾の音を聞いて退避はできませんし、夜が明けて敵機に発見されれば機銃から逃げ切れることはできません。命がけの行為です。
 
 取り残された重症患者には青酸カリの入ったミルクを濃く煮て渡されました。最後まで残った衛生兵の話によると患者はそれと知りつつ感謝しながら飲むものもいれば、口にしようとせず家族のことを言ってな泣いているもの、娘の写真とお守り札を慰問袋から取り出し、目にいっぱい涙をたたえて震える手で飲んだ兵もいたといいます。悲惨な光景です。中にはミルクを飲まず、自力で壕を這い出た兵もいました。
 この場面ではこうするしか仕方がないでしょう。しかし、仕方がないでは終わらせられない何かが胸に残ります。それが「何か」わかりませんが、きっと生き残った人たちは葛藤の中、戦後を生きたことでしょう。さらに戦後の新たな論調に巻き込まれ更なる葛藤があったと思います。
 
 ひめゆり隊生き残りの当真久子さん
「今でもあの当時のことを考えると涙が出ます」「あのとき戦死しておけばよかったと、今でもときどき思うんですよ。世の中の憎しみを知らずに、純粋なままでいられたでしょうから」



参考文献
 「沖縄に死す」小松茂朗
 「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善
 「沖縄戦『集団自決』の謎と真相」秦郁彦編『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
添付画像
 壕を爆破する米軍(説明では壕に隠れた日本人と書かれている PD)


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