死線を越えた人たちの再会 - 渡嘉敷島

 渡嘉敷村から送られた慰霊祭のスケジュールを受け取った赤松元大尉は出席の意向を伝え、昭和四十五年三月二十六日に那覇に到着します。そこで大ブーイングを浴びますが、村の人々とともにその場を後にします。
 以前、「たかじんのそこまで言って委員会」で集団自決を取り上げていましたが、番組内で沖縄出身のジャーナリスト恵隆之介氏が「当時の関係者が集まって肩を抱き合って慰霊祭をやった。死ねと言った人が戦後、島に来て住民と肩を抱き合いますか?」と言っていました。つまり那覇空港で大騒ぎして赤松元大尉を非難する人たちは当時の軍人、島民ではなく、全く別の人たちなのです。
 赤松元大尉は残念ながら渡嘉敷島にはわたりませんでした。赤松隊に所属していた生き残り将兵十三人と遺族が渡嘉敷島に渡り、慰霊祭に出席します。

琉球新報(三月二十九日付)
「この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、報道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。赤松元大尉が本島まで来ていることを知らされても『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない』と言った言葉が返ってくるだけ。本島で繰り広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二十五回忌の慰霊祭−」

沖縄タイムス(三月三十日付)
「五十年配の人たちは男女の別なく、生き残り将兵等と手を取り合った。炊事班に借り出され、赤松隊で働いていたという夫人などは、顔を覚えていた何人かをつかまえ、当時はお世話になりました、と涙を流さんばかりだった」

 慰霊祭のあとの「第三戦隊戦友会村民懇親会」では村のご夫人や娘さんが島の踊りを披露して歓迎し、出席した皆本元少尉は一緒に踊ったそうです。私はその時の写真を一枚だけ目にすることができました。「たかじん」の番組で「写真がないから信じない」と言ったパネラーがいましたが写真はあります。見て欲しいものです。

 赤松元大尉はモーターボートをチャージし、渡嘉敷島沖まできて、島へ向けて手旗信号で何かを合図します。誰に向けたのかはわかりませんが、おそらく元部下が島にいて元隊長の意を汲むことになっていたのでしょう。 あの日あの時あの場所にいた死線を越えた人たち同士にしかわからない感情、戦後生まれの私などにはわからないものがあるのだと思います。




参考文献:「沖縄戦渡嘉敷村『集団自決』の真実」曽野綾子
     オークラ出版「沖縄とアイヌの真実」

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