スマイスは南京大虐殺を見ていない

国際委員会のメンバーは南京大虐殺を見ていない。




 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦があり、日本軍による南京占領後、南京大虐殺があったと言われてきました。このとき一般市民は安全区と言われる南京城内の一区画に避難しており、外国人メンバーからなる国際委員会の保護下にありました。この国際委員会のメンバーに金陵大学教授のスマイス博士がいます。このスマイス博士は南京の被害情強を調査し「南京地区における戦争被害」として報告しています。その他見聞した記録が見当たらないと思っていましたが、南京問題研究家の松村俊夫氏が「アメリカ人の『南京虐殺の目撃証人』は一人もいなかった」という論説の中で「南京虐殺の目撃証人」(Eyewitness to Massacre)よりスマイス博士が妻に宛てた手紙を分析しているのがありました。

 スマイス博士の12月20日付家族への手紙
「(12月13日、月曜朝)家(宿舎)へ戻る途中、(午後)1時に日本兵が漢中路に到達しているのを見付けた。我々は車でそこへ行き約6名の小さな分遣隊に会った。それが最初だったが最後ではなかったのだ。上海路と漢中路の交差する角で、彼等はバスを調べたが、人々を傷つけることはなかった」

スマイス博士はラーベ委員長、白系ロシア人通訳のポドシボロフとともに行動していました。

「(12月13日、月曜朝)確かに、約百人の先遣隊が道路の南側に腰を下ろしており、その反対側では沢山の支那人の群集が彼等を眺めていた。私達は将校に対して安全区を説明し、彼の南京の地図にそれを書き入れた(彼の地図には安全区は示されていなかった)。彼は日本兵を攻撃する者がいない限り病院は大丈夫だと言った。武装解除された兵については、彼は何も言うことが出来なかった」

南京大虐殺は陥落の13日から3日間がもっともひどかったと言われていますが、何もありません。

「(12月13日、月曜朝)中山路には、敗走した兵達の武器が散乱していた。山西路サークルに近くなったとき、或る光景に驚かされた。さまざまな衣服を着て自動車を取り囲んだ群集が、角を曲がってやってきたのである。それは、車に乗ったリッグスが、武装解除した兵達のグループを法学院に連れてゆくところであることがすぐ分かった。彼等は自動車を包むようにしていた! サークルでは、武装した一隊にも会った。我々は武器を捨てるように彼等に言ったところ、何人かはそれに従った。
午後4時頃、国際委員会の本部では、スパーリング(ドイツ民間人)と他の人々が 群集の武装解除をしていた。この場所は、武器庫のようになっていた。彼等は、近く の警察本部に行進して行った。凡そ全部で1,300人の彼等の中には、まだ軍服を着て いる者も何人かいた」

 委員長のラーベの日記も確認してみます。やはり敗残兵の武装解除のことを13日の日記に記しています。
「我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった・・・ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は二日後にくるといった。日本軍は北へむかうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人・・・我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した」

大虐殺などおきていません。外交部と最高法院を捜索した日本兵の記録があります。歩兵第七連隊平本渥氏です。
「(13日)大通りを走りつづけて行くと、右側に立派な近代建築の四階建ての外交部の建物が見える・・・広い中庭では、山積された書類や漆器類が赤々と燃え、そのうえ、地階から運ばれる衣服類が投げ込まれて萌えている。中に入ると各階とも正規軍の負傷者で通路まで塞がり、その殆どが重傷者である」

ラーベ日記、マギー牧師の記録からも外交部は野戦病院になっていたようです。

 松村氏の論説には14日のスマイスの手紙も紹介して、50人の便衣兵が連行されたと記載がありますが、やはり大虐殺など見ていません。スマイス博士は東京裁判で宣誓供述書を提出していますが、この中にも殺人を目撃したことは書かれていません。国際委員会のメンバーとして南京市内を自由に行動できたスマイス博士は南京大虐殺を見ていないのです。




参考文献
 「アメリカ人の『南京虐殺の目撃証人』は一人もいなかった」松村俊夫
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 偕行社「証言による南京戦史」
 展転社「『南京大虐殺』はこうして作られた」冨士信夫(著)
添付画像
 南京天文台を警備する日本兵 日新報道「南京の実相」より

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