スティール記者は南京大虐殺を見たのか

ダーディン記者もスティール記者も南京大虐殺を見ていない。




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍による民間人を含めた大虐殺が行われたと言われています。それを報じたのがニューヨーク・タイムズ紙記者のF・ティルマン・ダーディン氏とシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者です。

 シカゴ・デイリー・ニューズ 南京、12月14日発
「私は、日本軍が無力な住民を殴ったり突き刺したりしているのを見た。また病院では、大勢の市民が銃剣創傷で苦しんでいるのを見た。
 また街路に死体が散乱しているのを見た。そのなかには人に傷害を与えたとはとても思えない数名の老人も含まれていた。また処刑された男たちの死体の折り重なる山をも見た」

 スティール記者は金陵大学のベイツ教授(中華民国政府顧問)のメモを手渡されていました。

 アメリ総領事館がワシントン国務長官に宛てた文書(1938年1月5日)
「南京大学のシール・ベイツ博士が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』記者のアーチボルド・スティール氏が当総領事館の館員に手渡したものである」

 ベイツメモ
絶えざる虐殺、大規模の計画的掠奪、家宅侵入、婦女凌辱等一切はすべて無統制であった。外国人居留民は事実その眼で路上に充満する良民の死体を見た。南京中区では辻ごとに必ず一個の死体が転がっていた。その大部分は13日午後および夜間日本軍の入城時に銃殺もしくは刺殺されたものであった」

ティール記者はベイツメモを頼りにして記事を書いた可能性があります。

 スティール記者は15日に米艦オアフ号に乗って南京を離れました。その時に300人の支那人の処刑を見たと書いています。

「南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして300人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった」

これはベイツメモにありません。同じ船に乗ったニューヨーク・タイムズのダーディン記者も見ていました。

 ニューヨーク・タイムズ(1937年12月18日) 17日オアフ号発
「上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した」

 後年ダーディン氏はこのときの様子を次のように語っています。(昭和62年(1987)8月)
「私が南京を離れる時に、川岸に沿って何千という中国兵の捕虜が連行されて来ていて、50人ずつ引き立てられては機関銃で殺されていました」

つまり敗残兵の処刑だったわけです。15日はまだ戦闘中ですから敗残兵の処刑は合法的です。

 昭和62年(1987年)9月、歴史家の笠原十九司氏がスティール記者にインタビューしています。そしてズバリ聞いています。

− 中国人が虐殺される場面を見ましたか。

ティー「はい。大勢の兵隊が銃殺されるのを見ました。整然と順序だって銃殺されていました。道路脇で、単独であるいは小グループで銃殺されているのを沢山見ました。目の前で銃殺されました。兵士だけでなく、民間人も手にタコがあると銃殺でした。手のタコは兵士であった証拠とされたのです。この写真(中華門で撮影した写真)の人が兵士か民間人か分かりません。日本軍は兵隊を探していましたが、民間人も大勢殺されたことは確実です」

 スティール記者は兵士の銃殺は「見た」といっていますが、民間人が殺害されたというのは「見た」といっておらず、「確実です」と言っています。これはあくまでスティール氏の推測の上で「確実」と言っているに過ぎません。見たら「見た」と答えます。確かに支那兵は便衣兵となって軍服を脱いで民間人の中に紛れ込んだので、日本軍は誤って民間人を銃殺してしまった可能性はあります。しかし、それがすなわち「大虐殺」に結びつくとは言えません。スティール氏も「見た」と言えないようなものでした。スティール氏は南京大虐殺を見ていないということです。



参考文献
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 草思社南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 評伝社「外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著 訳者不詳
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)

添付画像
 中山路と中山北路の西側の一区画(PD)
 15日に佐藤振寿カメラマンが撮影したもの。南京大虐殺があったとされる日である。恐怖のあまり逃げ惑っている市民の様子???
 水間政憲(著)「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」より

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 スティール記者の撮影した写真「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」より七つ目までは中華門。死体は戦闘によるもの。
 スティール記者は城外の写真は撮っているが、これは記事に掲載していない。城内の写真を撮らなかった理由を後年のインタビューでは「南京の城内で写真を撮っているのを発見されたら、おそらくカメラは取り上げらていたでしょう」と述べている。しかし、日本人記者は問題なく撮影できており、他の外国人記者が撮影した写真も存在する。








8 支那兵が連行されているとしている。

9 掃討戦。日本兵がこちらを見ている。

10 支那兵がロープをつたって城外へ脱出した跡。