夏淑琴さん事件は12月13日に発生したのではなかった

反日プロパガンダに使われている夏淑琴さん事件は再検証すべき。




 夏淑琴(か・しゆくきん)さん事件というのは昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で、日本軍が南京を陥落させ、城内に進入したとき、夏さん一家と家主一家13名のうち11名を殺害したとする事件です。8歳の夏さんと4歳の妹が2週間生き延び、近所の近所の老女が発見しました。これらを外国人が組織する国際委員会が聞き取りし、マギー牧師が写真を撮りました。マギー牧師はこのときのことを東京裁判で次のように述べています。

1月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色々な事件が起ったのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申し上げようと思いますのは、新開路六番地の家で起った事件であります」

サトン検察官「それは何年のことですか」

マギー「1938年のことであります。(中略) 私は新開路六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取った母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。其の家に十三人の人が住んで居ったのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります」

 マギー牧師の証言では1月の終わりに発見されたとなっています。フォスター文書にマギーが聞いた惨劇が1月25日付で書かれています。国際委員会の委員長ラーベの日記の1月29日に以下の通り書かれています。
「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。親族は11人だったというが、残らず残忍な殺され方をしていた。近所の日ちびとに助け出されるまでの14日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという」

 夏さんの証言には事件が起こってから発見されるまで「1週間」(南京大虐殺と原爆)というのもあります。1週間から2週間だとすると、フォスター文書の日付から逆算すると事件は1月11日から1月18日の間に発生したと考えられます。しかし、安全区の記録にも事件は12月13日と書かれています。

第219件「ジョン・マギー氏のきくところでは、12月13日から14日にかけて城南に住む一家の13人のうち11人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った小さな子供が話してくれたのである」

 英記者ティンパーリの著「戦争とは何か」では「1938年1月14日から2月9日にいたる暴行事件の報告」に記載されています。いったいこれはどういうことか?マギーが撮影した写真のマギーによる解説をみるとこの謎が解けてきました。

「12月13日、約30人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、中に入れるよう要求した。
 玄関を、マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。すると、ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上・・・(中略) その八歳の少女は傷を負った後、母の死体のある隣の部屋に這って行った。無傷で逃げおおせた四歳の妹と一緒に、この子はここに十四日間居残った」「写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、詳細は一人の隣人と一人の親戚から語ってもらって、確認と訂正ができた」

イスラム教徒は旧暦を使います。家主がイスラム教徒だったということは夏さん一家もイスラム教徒であり、集まって暮らしていた可能性が高いです。それで8歳の夏さんは旧暦で「12月13日」と答えたわけです。ネットの変換ツールを使うと旧暦の12月13日は新暦の1月14日にあたります。マギーもこのことには気づかなかったようで、事件が起こって発見されるまで2週間と自分が言っておきながら、東京裁判では「私が行ったときは事件が起ってから約6週間後」と計算し直して答えています。

 マギーが事情聴取した「一人の隣人」というのは哈夢鶴さん(当時12歳)らの一家のことと思われます。家主一家であり、夏さんの隣の部屋住んでいました。哈さんの証言があります。(南京大虐殺と原爆)

「日本軍が攻めて来るという知らせが入ったので、一週間ほど前に父と二番目の叔父と相談して、避難した方がいいのではないかということになり、南京から10キロ半れた沙州于(てへん)に避難しました。農暦(旧暦のこと)の19日だと記憶しています」
「それからだいたい一週間ぐらい、近所に住んでいた人に出会うと、『門東(中華門の東)でたくさんの人が死んでいるよ』と聞かされました。」「家に帰ってすぐ中を見ていると十一人が既に死んでいました」

 農暦の12月19日は新暦の1月20日になります。それから約一週間程で夏さんらを発見したのであれば、マギー証言とほぼ合致します。農暦の19日が11月だとすると新暦の12月21日になり、事件発見は一週間後の12月28日となり、死体を片付け葬儀をしたと言っているのですから、マギーは新暦の1月に事件現場を見ることはできません。新暦の12月21日あるいは新暦の1月20日に「日本軍が攻めてくるから避難」というのはおかしく、哈さんが沙州于から城内に戻り安全区に入ったのが新暦1月20日だった思われます。

 事件が昭和13年(1938年)1月14日あたりに発生したとすると、このころは自治委員会もたちあがり、日本軍は第33連隊が城内にいただけです。12月13日の状況とは全く違います。武装集団は第33連隊のほか支那の便衣隊が潜んでおり、攪乱工作を行っていました。これらのことを調べないといけないでしょう。




参考文献
 河出書房新社日中戦争資料<8>」洞富雄(編)
 展転社「『南京虐殺』への大疑問」松村俊夫(著)
 岩波書店南京難民区の百日」笠原十九司(著)
 草思社南京事件 証拠写真を検証する」東中野修道小林進・福永慎次郎(著)
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 河出書房新社日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 東方出版南京大虐殺と原爆」戦争犠牲者を心に刻む会(編)
添付画像
 夏さん事件の現場 「南京、マギーフィルム3」 より http://www.youtube.com/watch?v=iUIZbCrPBbo

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