ラーベは南京大虐殺を見たのか

国際委員会の委員長であるラーベは南京大虐殺を見ていなかった。




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で13日の南京城陥落後、六週間にわたって30万人が殺害されるという南京大虐殺があったといわれてきました。このとき難民は外国人メンバーが組織する国際委員会の管理下で安全区と呼ばれる地帯に避難していました。日本軍はここは攻撃しませんでした。

 国際委員会の委員長はドイツ人のラーベでジーメンス社の社員でした。南京市とは電気関係の取引をしていたので、彼は支那寄りの人間で、反日的でした。ですので、支那人の口からの出任せのウソである日本兵の殺人、略奪、強姦、放火を簡単に信じたか、ウソとわかっていてネタにして日本大使館へ抗議していました。ドイツ大使館員のシャルフェンベルク事務長に「第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか」と肩入れしすぎていることについて警告を受けています。

 このラーベが書いた日記は「南京の真実」というタイトルで平成9年(1997年)に出版されました。当時、ノンフィクション作家の立花隆氏は「文句なしの一級資料である・・・日本はいまだに『南京大虐殺まぼろし』説をとなえる人々がいるらしいが、そういう人々にぜひとも読ませたい一冊である」と絶賛しました。しかし、これは読んでみると爆笑ものなのです。なんとラーベ自身が目撃した殺人はゼロ件なのです。南京で30万もの大虐殺が繰り広げられたのに、南京城区の中を自由に歩き回っていたラーベがただの一件も殺人事件を見ていないのです。わずかに同じ国際委員会のメンバーであるクレーガー氏とハッツ氏の目撃談が信憑性の高い唯一のものです。

 ラーベ日記1月9日
「11時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった『小規模の』処刑について報告した。日本人将校一人に兵士が二人、山西路にある池の中に中国人(民間人)を追いこんだ。その男が腰まで水につかったとき、兵士のひとりが近くにあった砂嚢のかげにごろりと寝転び、男が水中に沈むまで発泡し続けたというのだ」

この事項は国際委員会の記録にもあります。そして注釈がつけられています。

「われわれは、日本軍による合法的な死刑執行に対して何ら抗議する権利はないが、これがあまりにも非能率的で残虐なやり方でおこなわれていることは確かである」

国際委員会は便衣兵(いわゆるゲリラ)の処刑は合法的と考えていたわけですが、ラーベの日記にはこの見解が一切書かれていないのです。

 また、ラーベは支那兵を匿っているのです。
12月12日
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した」

龍と周は支那軍の大佐で、ラーベは彼らと停戦交渉をしていました。支那軍の将校を匿うということは国際委員会は中立ではなかったということです。実際、支那兵(便衣兵)は日本兵の行為に見せかけて悪事を働いていました。

 チャイナ・プレス 1938年1月24日 日本憲兵隊の報告書より引用
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいるといわれている。
 馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わったという」

 ラーベは龍と周が去った日の日記に「残念ながら我々の友情にはひびが入った」と書いており、彼らが悪事を働いていたことを匂わせる内容です。ラーベは知っていたはずです。しかし、ラーベは日本軍の暴行というプロパガンダヒトラーに上申したのです。




参考文献
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 河出書房新社日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 展転社「『南京虐殺』への大疑問」松村俊夫(著)
 草思社南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
添付画像
 陥落2日後の南京。大虐殺があったとされる日だが、市民の中には給湯器を持ち出して商売する人も。商売どころではないはずだが・・・
 水間政憲(著)「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」より 佐藤振寿カメラマンが撮影

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