南京虐殺を世界に知らせたというダーディンは嘘をついたのか

ダーディンは嘘をついたのか?




 昭和12年(1937年)12月、支那事変の南京戦で南京大虐殺があったとして、ニューヨークタイムズのF・ティルマン・ダーディン氏が12月18日に伝えました。

 ニューヨーク・タイムズ宛特電
「南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった」

 彼の記事の中に下関門の虐殺記事があります。
「日本軍の下関門(邑(手へん付)江門)の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、高さ6フィート(約1.8メートル)の小山を築いていた。水曜日遅くになっても日本軍は死骸を片付けず、さらには、その後の二日間、軍の輸送車が、人間も犬も馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した」
「日本軍に抵抗するとひどいめにあうぞと中国軍に印象づけるため、日本軍は出来るだけ長く恐怖の状態にしておきたい意向のようだ」

 邑江門の死体については日本の関係者も見ています。

 上海派遣軍参謀 大西一大尉
「13日にはまだ戦闘が続いていまして、首都飯店付近までしか行けませんでした。邑江門に行った時は両側が死体でいっぱいだった」

 この邑江門の凄惨な光景は南京大虐殺の象徴的な光景として日本の歴史教科書にも紹介されているといいます。

 支那軍第87師261旅長
「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希廉(さんずい付)麾下(きか)の第36師212団は、撤退命令を出された後も、邑江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、邑江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニックになり、邑江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第36師212団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、邑江門内は大惨事となった」

 支那軍には督戦隊というのがおり、逃げる兵を後方から撃ち殺すのです。つまり邑江門の死体は督戦隊により殺された支那軍兵士の死体でした。邑江門の土嚢を撤去して入城した歩33の兵士たちも死体は門内に既にあった、としています。これらの死体は城外に逃げようとして殺害されているのですから、あとから見た場合、城外からやってくる日本軍との交戦によるものだと勘違いした可能性があります。シカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者も似たような記事になっています。

 昭和62年(1987年)に歴史学者笠原十九司氏がダーディンにインタビューしています。その中で邑江門の死体について語ったところがあります。

「この下関区域では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。前にも話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らなければなりませんでした。この門から脱出しようとした中国兵の死体です。中国兵はあちこちで城壁に攀(よ)じ登り脱出を試みました。これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域では戦闘がありませんでした」

ダーディンは戦闘の後に死体を見て勘違いしたのではなく「戦闘はなく」「日本軍が占領する前にあった」ことを知っていたわけです。それを日本軍による「集団殺戮」と書いた記事にしていたのです。不当な殺害として印象付ける意図があったわけです。

 ダーディンはなぜ虐殺を捏造したのか。もともとニューヨーク・タイムズ反日的なメディアで、ダーディン氏はニューヨーク・タイムズでの初仕事でした。ですので「反日」記事を強力に仕立て上げ、認めてもらうため、ペンが滑ったのかもしれません。




参考文献
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 明成社「再審『南京大虐殺』世界に訴える日本の冤罪」大原康男/竹本忠雄(共著)
 日本図書刊行会「本当はこうだった南京事件」板倉由明(著)

添付画像
 陥落2日後の南京。大虐殺があったとされる日に市民が衣類を売り始めている。水間政憲(著)「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」より佐藤振寿カメラマン撮影。

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