ヴォートリンが南京で見たもの

ヴォートリンは南京で8000件におよぶ強姦事件を何件見たのか。




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍は南京市を占領しました。ここで日本兵が殺人、略奪、強姦、放火といった蛮行を繰り広げたと言われています。難民を受け入れて国際委員会のベイツ(金陵大学教授、中華民国政府顧問)は「友人のドイツ人の統計によると強姦事件は二万人に上った。私は最低限度八千人とみている」(外国人の見た日本軍の暴行)と述べており、翌年は大ベビーブームが起こったでしょうが、そんな話はどこにもありません。

 若い婦女子の多くは金陵文理女学院に収容されており、ここはアメリカ人のミニー・ヴォートリン女史が責任者となっていました。強姦するなら、ここへ行けば手っ取り早い話です。ヴォートリン女史はさぞかし多くの強姦事件を目撃したことでしょうが、見たのは1件だけです。それも強姦?と首をかしげたくなるような話です。ヴォートリン日記には次のように書かれています。

12月19日
「キャンパスの裏手まできたとき、教職員宿舎へ行くようにと、取り乱した声で言われた。その二階に日本兵が上がって行った、という。教職員宿舎二階の538号室に行ってみると、その入口に一人の日本兵が立ち、そして、室内ではもう一人の兵士が不運な少女をすでに強姦している最中だった。日本大使館に書いてもらった一筆を見せたことと、わたしが駆けつけたことで、二人は慌てて逃げ出した」

これだけです。「強姦」と言っていますが、女性が悲鳴をあげたとか、助けを求めたとか、何も書いておらず、売春行為の可能性のほうが高いです。実際、売春婦は多くいました。24日に日本軍から学院へ売春婦の選別依頼がきています。

12月24日
「以後は女性を連行しないことを彼ら(日本軍)が約束したので、物色を始めることを承知した。・・・かなりの時間が経過してから、彼らはようやく21人を確保した。こうした物色がおこなわれていることを聞きつけて逃げ出した女性や、いまなお身を隠している女性もいると彼らは考えている。大勢の少女が次々わたしのところへやってきて、残り79人は品行正しい少女のなかから選ぶのか、と質したが、わたしとしては、わたしが言って阻止できるのであれば、そういうことにはならないはずだ、と答えるのが精いっぱいだ」

この場には国際委員会のラーベ委員長(ドイツ軍事顧問団の連絡員)も立ち会っていたようです。26日の日記にヴォートリン女史について書いたところに記載があります。

「ところでこの人(ヴォートリン)に恐ろしい事件が起こった!彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、めんどりがひなを抱くように大切に守っていた・・・さて、日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうととんでもないことを思いついた。何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、ミニは両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。ところがそこへ唖然とするようなことが起きた。我々がよく知っている、上品な紅卍字会のメンバーが(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いもよらなかったが)、なみいる娘たちに二言三言やさしく話かけた。すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った」

 ヴォートリン女史はとても純粋な人だったようで、同情を買って収容所に入り少しでも良い待遇を受けたいと思う支那人たちの、ありもしない日本兵の暴行というデタラメ話を頭っから信じてしまっており、日本兵を見かけるだけで憎悪を感じるようになっていました。

 もちろん日本兵による強姦事件はゼロということはなく、7件は記録されています。小都市に匹敵する8万の将兵がいるわけですから、事件が一件もないということはありえません。しかし、ベイツの八千人というような強姦が常態化しておこなわれていたということはなく、これらはデッチ上げのプロパガンダなのです。



参考文献
 大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 評伝社「外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリ(原著) / 訳者不詳
 河出書房新社日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
 展転社南京事件の核心」冨澤繁信(著)
添付画像
 陥落2日後の南京。大虐殺があったとされる日だが市民はのんびり水餃子を食べている。
 水間政憲(著)「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」より 佐藤振寿カメラマンが撮影

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