南京郊外の虐殺は支那軍の仕業だった

南京郊外の虐殺を日本軍の仕業にすり替えている。




 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦で30万という大虐殺があったといわれてきましたが、どう考えても無理があることは多くの人の知るところになってきています。歴史家の笠原十九司氏は虐殺肯定派ですが、「ラーベは(虐殺が)5〜6万と言っているが、彼の目の届かない郊外や、彼が去った後の犠牲者を足すと30万ぐらいになるはず」と時間と地域を広げようとしています。

 南京は城内城外の市街と近郊六県があります。笠原十九司(著)「南京事件」より郊外の句容県の虐殺事件を引用します。
「日本軍が倪塘村にきたとき、婦人や老人、子供はまだ村に残っていたが、侵入してきた日本軍の銃声が聞こえたために、婦人や子供も夕闇にまぎれて逃亡、付近に身を隠した。日本軍は逃げ遅れた村民と他所から避難してきていた人など40余人を捕まえて倪安仁という村民の家に押し込めて火をつけ、焼き殺してしまった・・・日本軍は村を去る前に村落を放火していったため、村の公共の建物以外、全村80余戸は全部焼失した」(句容県誌)

だいたいこれは支那軍の清野作戦(焦土作戦)でしょう。退却するとき、日本軍に建物や食糧を使わせないようにするためのものです。

 金陵女子文理学院ミニー・ヴォートリン日記 12月6日
「UP(AP)特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容に行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ」

 ジャーナリストの本多勝一氏は倪塘村の虐殺事件を支那人から聞き取り調査し、著書「南京への道」に載せています。この証言を検証した本、川野元雄(著)「南京『大虐殺』被害証言の検証」が今年10月に展転社から出版されています。

 倪年科少年(当時10歳)の証言
「12月4日の夕方ごろ、日本軍はむらの東端まで攻め寄せた。街村状の部落には86世帯あったが、銃声をきいた村民は部落を捨ててバラバラに逃げた」(少年は家族と近くの河の掘割に隠れる)
「暗くなるころ、部落の一角に火の手があがった。家の燃える音に犬の遠吠えや人間の叫び声が混じって凄惨な状況となったが・・・」
「倪安仁の家に、逃げおくれた住民の一部と他所から避難してきた人など四十数人がつかまって、押しこめられ、放火されて焼き殺された」

「夜が明けた。おそらく八時か九時ごろのこと、北隣りの西荊村から80人ほどの男たちが日本兵に連行されてきた・・・西荊村を中心とする周辺の男たちであった。うしろ手に縛られ数珠つなぎにされていた。一行がほぼ二本の畦道沿いに並んだところで、公路近くの池のそばにすえられた機関銃が乱射して皆殺しにした」
「部落は5日の夜さらに放火されて、86世帯のうち1世帯の三間を残すだけとなった」

 GoogleマップよりJJ太郎作成

 見てわかる通り、日本軍は3.5Km北の西荊村に寄り道して戻ってきたことになります。日本軍は急行軍で12月4日夜11時には15Km先の句容に突入しているのに12月5日の夜まで手前の村で虐殺にあけくれていたと言うのですから、辻褄が合いません。そもそも日本軍の動きを住民はある程度知っているはずで、銃声を聞いて逃げるのではなく、もっと早く逃げていたはずです。

 著者の見解では西荊村には支那軍の拠点があったと予測され、12月4日よりもう少し早い日に日本軍がやってくる情報をキャッチし、南京へ退却するため西荊村を焼き払い、村民を連れて倪塘村へ行き、村民を虐殺し、火を放って句容方面へ退却していったのであれば辻褄は合うとしています。つまり証言は支那軍の清野作戦を日本軍の仕業にすり替えているということです。本には他の事件の支那人の証言もすべて矛盾があり、支那軍の仕業として置き換えてみれば辻褄が合うことがわかる検証になっています。特に刈り取った稲や食糧のある地点を焼き払っているところなどが清野作戦の特徴です。日本軍に食糧を渡さないためです。

 しかしながら、支那軍が同胞支那人を虐殺することなんてあるの?と思われる方もいるでしょう。元自衛隊の池田整治氏によると北京の人は広東の人を同胞と思っていないし、逆もそうであるし、広東の人も出身地がことなれば同胞とも思っていないそうです。日本人からみれば同胞を叩きのめす姿は異常に移りますが、支那人にとっては同胞ではなく、叩きのめすのは何ら違和感はないわけです。こうした支那人同士の虐殺は戦前出版されていた本を紹介した西尾幹二氏の「GHQ焚書図書開封」を読んでいても出てきますが、GHQにより戦後焚書されたので、日本人は記憶喪失にされました。

 結論として、南京郊外で日本軍が大虐殺を行ったということはありません。大虐殺を行ったのは支那軍であり、支那の歴史書と証言は日本軍の仕業にすり替えていたのです。こういうデタラメを笠原十九司本多勝一らが本に書いて日本に広めていったわけです。




参考文献
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 岩波書店南京事件笠原十九司(著)
 大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
 朝日文庫「南京への道」本多勝一(著)
 展転社「南京『大虐殺』被害証言の検証」川野元雄(著)
 マガジンハウス「超マインドコントロール」池田整治(著)
添付画像
 日本軍将校からキャラメルを貰って嬉々と興ずる支那の子供達、(江南)1937年11月6日 日新報道「南京の実相」より

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