沖縄戦を考える − 沖縄の疎開事情
大東亜戦争の沖縄戦では島民を巻き込んだと聞きます。政府、軍部は島民を避難させなかったのか?という疑問がでます。硫黄島でもペリリューでも住民を避難させています。硫黄島では1000人ぐらいの島民がおり、軍属として徴用された者(約230名)以外は皆疎開しています。
私が子供の頃、学校で「対馬丸」の事件を聞いた記憶があります。沖縄から九州へ船で子供達が疎開する途中に米潜水艦に撃沈され幼い多くの命を失った事件です。沖縄の子供たちは内地では雪が見れるとはしゃいでいたと記憶しています。(対馬丸の沈没は1944年8月22日)
1944年7月7日サイパン玉砕。政府は緊急閣議を開き、第三二軍守備区域(沖縄県・奄美諸島)の住民を島外に疎開させる方針を決定しています。これにより第三二軍は沖縄への輸送船の帰り便を利用して、九州、台湾へ10万人の島民を疎開させ、島内に残った住民は沖縄本島北部に避難させることにしました。司令部は那覇(本島南部)にあり、飛行場などの施設は中央部にあります。そのため北部に避難させることにしたようです。1944年12月には南西諸島警備要領として県側と協議会を開き、それを受けて県側は北部の国頭地方への避難計画を作成します。
疎開はスムーズにいったかというとそうでもないようで、学童疎開などは政府が秘密にしていた対馬丸事件が漏れており危険視する父母が多く先生が必死に説得に回ったそうです。
参考サイト:WikiPedia「硫黄島 (東京都)」
http://www.tsushimamaru.or.jp/
http://www.okinawa-senshi.com/sousetu.htm
参考文献:「沖縄戦集団自決の謎と真相」秦郁彦編
「沖縄戦の真実と歪曲」大城将保著