東條内閣誕生

 昭和16年(1941年)10月18日に東條英機は第四十代内閣総理大臣に就任します。東條英機は近衛内閣のときには陸軍大臣でした。日米交渉にかける近衛首相は支那からの撤兵の譲歩が必要だと東條英機を説得しますが、東條英機はガンとして受け付けません。もはや近衛首相は総辞職するしか手がなくなり、総辞職となります。

 東條英機が総理に選ばれたのは陸軍を抑えられるのは東條英機以外はいないという点と忠臣であるがゆえに責任ある立場となれば平和への努力も怠らないという点と言われています。このほか、戦争は避けられないので皇族方を首相にすることができなかったとも言われています。木戸内大臣の上奏に対し昭和天皇は「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と述べています。

 こうして9月6日の御前会議で決定した「開戦やむなし」を白紙に戻し、東條英機は日米交渉に臨むことになります。11月5日に交渉リミットを12月1日と定め、東條内閣の甲案、乙案、を野村大使宛に送ります。野村大使を補佐するために来栖三郎をワシントンへ派遣します。

 しかし、日本の譲歩案は無線傍受され暗号解読され、しかも歪曲翻訳というおまけ付でした。その一部をあげると
原文 「本案は修正せる最終的譲歩案にして左記の通り緩和せるものなり」
傍受 「本案は修正せる最後通牒なり。左記の通りわが方の要求を加減した」

原文 「甲案にて妥結不可能なる際は、最後の局面打開策として乙案を提示する意向なるにより・・・」
傍受 「もし交渉妥結不可能なること明白となりたる際は、わが方は絶対的な最後の提案として乙案を提出せんとする」


 ほかにも読んでみると非常に悪印象、かつ高圧的印象を持つような訳され方になっています。ハル国務長官は栗栖三郎とは反りがあわなかったことを「彼の顔つきにも態度にも信頼や尊敬を呼ぶものがなかった。私は始めからこの男は嘘吐きだと感じた。彼の役目は日本の攻撃準備ができるまで、会談でわれわれを引き摺っておくことだった」と述べています。譲歩案の悪意に満ちたような訳を予め読んでいたため、このような印象を持った可能性が大いにあります。グルー駐日大使は日本側の誠意を立証するよう米国務省に進言しますが、ハル長官は頭から”誠意なし”と決め付けていました。そして米国から日本へ「ハル・ノート」が突きつけられることになります。



参考文献
 「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著
 「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀編
 「パール判事の日本無罪論」田中正明
参考サイト
 WikiPedia東條英機

広島ブログ クリックで応援お願いします。