日露戦争後の米の日本打倒計画

 日露戦争中に米は陸海軍合同で米英日連合軍と露仏独の連合軍が極東で戦う想定で図上演習を反復し、結果、米海軍は極東では極めて非力の結論に達します。しかもロシア海軍を欠いた海戦では日本海軍は単独でも独仏海軍に勝利できるという結論がでて衝撃をうけます。これは日英同盟を破棄させるための動機のひとつになったといわれています。

 これより米国はオレンジ計画と呼ばれる対日戦争計画の策定が開始されます。米は日本を凌駕する大海軍建造に着手。1908年から09年にかけて建造した戦艦16隻からなるホワイトフリートと呼ばれる大艦隊を日本に寄港させ威嚇します。パナマ運河は1914年に完成。第一次世界大戦でドイツが敗北するとさらに日本を意識し始めます。
 第一次世界大戦後はオーストラリア・ニュージーランドに接近し、軍港を借ります。これは対日戦が始まったとき、日本がハワイ・グアム・マニラのルートを封鎖してしまう可能性が大きく、南からのルートを確保したものでした。ハワイ−サモアオークランド−ポート・ダーウィンシンガポールのルートです。こうした軍事的圧力を加えつつ日本に対して1937年7月からは経済的な圧力を加え始めます。ABCD包囲網と呼ばれるものです。このABCD包囲陣について東京裁判で日本無罪を主張したのパール博士は以下のように述べています。
「禁輸が有効になったときの品目表ならびにその日付を一瞥しただけでも、この措置が、民間人の生活にもどれほどまでの影響を及ぼしたかが明らかになるだろう。疑いも無く、これらの品目の多くは、日本の民間人の生活にとって、絶対必要なものであった」

 1940年6月ハル国務長官は以下の通り述べています。

「合衆国は過去1年間、日本に対して経済的圧迫を加えてきた。その効果は表れてきた。合衆国艦隊を太平洋に配備し、そして日米問題を安定させるために、実際の軍事的敵対行為の非常な危険を冒さない範囲で、できるだけ、あらゆる措置を講じている。この方策は、将来における合衆国の意図を最もよくあらわしている」

 1938年アーネスト・J・キング中将は旗艦の空母サラトガから航空機を発進させ、真珠湾北太平洋から空襲されることを想定した演習を実施しています。日本軍が真珠湾を奇襲することを想定した演習です。軍事的なものだけでなく、米国は1920年より諜報無線局を設置していき、米、英、加、蘭を加えた情報無線局によって日本を包囲し、日本の無線を傍受します。対日戦万全の態勢を作り上げていきます。

 一方の日本は1930年のロンドン軍縮会議に見られるように軟弱外交によって米の意のままに追い詰めらてしまうのです。


参考文献
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭朋和著
 「GHQ焚書図書開封西尾幹二
 「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット著
 「パール判事の日本無罪論」田中正明


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