米国の横暴
思想家、大川周明氏が1941年12月に行った演説にはロンドン軍縮会議の日本の弱腰外交につづいて米国のカリフォルニア州の排日問題についても述べています。
大統領ルーズベルト(セオドア・ルーズベルトのほう)日本人はかくの如き侮辱を感受する国民ではないと信じていたので、フィリピン陸軍司令官ウッドに対し、何時日本軍の攻撃を受けても戦いえるよう準備せよという命令を発し、しかも万一日米戦争になればフィリピンは日本のものとなるであろうと甚だ憂鬱であったのであります。そして心配に堪えかね、フィリピン派遣という名目で陸軍長官タフトを東京によこしたのでありますが、タフトは東京から「日本政府は戦争回避のために最も苦心を払いつつあり」と打電して、ルーズベルトの愁眉(しゅうび)を開かせております。 |
日本人移民迫害について昭和天皇は「黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである」というほどのものであったのに日本政府は侮辱を受けても弱腰だったのです。
日露戦争以降の数々の米国の横暴に対して日本政府は弱腰をずっと続け国民は怒り続けたわけです。日中戦争が勃発し、米国は日本への嫌がらせをどんどんエスカレートさせ、日米交渉をぶち壊してハル・ノートを突きつけます。その頃の国民感情はもっと色々なものを見ていかないとはっきりとはわかりませんが、詩人の高村光太郎氏が日米開戦のときにうたった詩によく表れているのではないでしょうか。
黒舟以来の総決算の時が来た。民族の育ちがそれを可能にした。 長い間 こづきまはされながら、なめられながら、しぼられながら、 仮装舞踏会まで敢えてしながら、彼等に学び得る限りを学び、 彼らの力を隅から隅まで測量し、彼らのえげつなさを満喫したのだ。 いまこそ、古しへにかへり 源にさかのぼり 一瀉(いっしゃ)千里の 奔流となり得る時が来た。 |
参考文献:
「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二著
「日本はどれほどいい国か」 日下公人・高山正之共著
参考サイト:
Wikipedia「高村光太郎」
参考映画:
「私たちは忘れない」靖国神社