嗚呼、サイパン玉砕

われわれの同胞はどうなったのでしょうか。英霊に合掌。


 昭和19年(1944年)6月15日から始まった大東亜戦争サイパン地上戦は圧倒的な火力を誇る米軍に対して、日本軍は大奮戦し、苦戦する米軍は第27師団長ラルフ・スミス少将が更迭されたほどでした。また米軍のグアム、テニアン進攻を遅らせました。

 7月6日、力尽きた日本軍は南雲海軍中将、斉藤陸軍中将、井桁陸軍少将が自決しました。庁職員幹部もほとんど自決。南洋興発という民間企業の幹部も自決。7月7日、軍と民間義勇兵で最後の総攻撃を敢行。そして日本軍玉砕。

 7月8日には南洋興発病院の医師と看護婦3名が米戦車の攻撃を受け、全員壮烈に相果てました。3人の看護婦の蒼白な顔は心なしか薄く化粧され、少しの苦悩の色もなく、むしろわずかな笑みさえ口元にただよっていたといいます。

 サイパンには一般邦人が24000人ほど残っており、狭い島の中、戦禍を逃れて北へ北へと移動していました。米軍に掴まった民間人の中には米軍に虐殺されたものもいたといいます。

 田中徳祐(陸軍予備士官少尉・独立混成第47旅団)の証言
「滑走路に集った老人と子供の周りにガソリンがまかれ、火がつけられた。忽ち阿鼻叫喚の巷と化した滑走路。我慢ならず我兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続けた」
「火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れた。二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。『ギャッ!』といふ悲鳴を残して蛙のように股裂きにされた日本の赤ん坊とそれを見て笑う米兵士」

 サイパン島の北端のマッピ岬では投身自殺する女性、赤子を抱いて海中に飛び込む母親、夫婦で愛児を刺し殺し、手榴弾自決するもの、小学校の児童が車座になって手榴弾で集団自決するなど「マッピ岬の悲劇」が起こりました。サイパン戦では邦人24000人中、15000人が死亡したことになっていますが、かなりの割合で自決だったと言われています。

 7月17日17時、大本営サイパン玉砕を発表。

 9月10日衆議院第四回予算委員会 予算委員、中島弥団次議員の質問。
「ここに総理大臣、陸海軍大臣はじめ内閣の諸公にお聞きいただきたいことは、非戦闘員の声であります。軍の長官の報告は、最後の無電で悲壮なる場面をうったえて、われわれはこれに憤激いたしております。また多大の同情と感謝の念に燃えております。
 内地にある遺族に遺言を送るべき方法も無い、万斛(ばんこく はかりきれないほど多い分量)の恨みを呑んで斃れていった人々の無声の声を聞いていただけなければならない。サイパン島の最高指揮官の有声の声と同じく、この多数の非戦闘員の声を、私は聞いていただきたいと思います。このことがじつに、われわれ国民にとりまして、聞きたいところであります」

(中略)

「どういうふうに同胞がなっているのでありますか。これら多数の人々は将兵とともに斃れて玉砕した人々もありましょう。また不幸にして戦い得ずして敵に収容されている人もありましょう。これらにつきましては国際公報によって第三国を通じまして、米国から知ることができるであろうと思いますが、この状態はどうなっているのでありましょうか。これは一億国民がひとしく知りたい点であります」

 それは涙声ともに下がる熱弁でした。




参考文献
 光人社NF文庫「サイパン戦車戦」下田四郎(著)
 光人社NF文庫「サイパン肉弾戦」平櫛孝(著)
 光人社「提督 角田覚治の沈黙」横森直行(著)
参考サイト
 WikiPediaサイパンの戦い」

添付画像
 昭和19年(1944年)7月12日。サイパン玉砕後も火炎放射器で洞窟を掃討する米軍(PD)

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