死闘!サイパン砲兵隊

サイパンの死闘。


 昭和19年(1944年)6月15日、米軍がサイパンに上陸。これに先立ち、米軍は4日にわたり、猛烈な艦砲射撃と空爆を繰り返していました。独立山砲兵第三連隊(満州にいた部隊。昭和19年3月19日サイパン上陸)黒木大隊は十五榴12門は1門も損傷を受けませんでした。これはジャングルの中に大砲を引っ込めて完全にカモフラージュしてあったからです。射撃のときはカモフラージュしておいてある位置から射撃位置の砲座まで緩やかな傾斜の道をつけ、数人の人力により、容易に移動できるようにしておいたのです。サイパンには黒木大隊長の陸軍科学学校時代の教官であった平櫛参謀がおり、「満点をつけたいぐらいの戦闘準備」と言っています。

 黒木大隊は米軍が上陸してもじっと我慢し、敵状の観測を続けました。16時ごろになると敵飛行機が母艦に引き揚げます。ここで好機とばかり大隊は射撃を開始。弾丸に信管をつけ砲側に並べ、つるべ撃ちで撃って撃って撃ちまくり、敵陣に榴散弾(りゅうさんだん)を降り注ぎました。

平櫛参謀「黒木、実によくやったな」
黒木大隊長「弾丸、特に信管が足りなくなりそうです。至急、補給してください」

 これが平櫛参謀と黒木大隊長の最後の会話となりました。

 翌、6月16日、米軍は戦車を先頭に観測所(着弾を確認し、砲陣地に情報を伝える)地帯に向かい攻撃してきました。よほど黒木大隊の砲撃によって痛手を負ったのでしょう。観測所からは「米戦車が観測所に向かって攻撃してくる。あと500・・・あと300」と連絡してきますが、なすすべはなく、本隊は射撃し続け、やがて観測所からの連絡は途絶えました。

 大隊本隊にも米戦車はせまり、遂に対戦車射撃用のゼロ距離射撃(砲を水平に向けて撃つ)になります。弾丸の破裂が至近距離なので、味方の兵にまで損害を与えてしまいます。それでも大隊は死闘を続け、そして遂に壊滅。黒木大隊長は翌17日の夜襲で負傷し、部下が後方に退くことを勧めましたが、頑として聞き入れず、単身米戦車に斬り込み壮烈な戦死を遂げました。

 7月7日、最後の総攻撃の日。突撃部隊は3手に別れ、平櫛参謀は1000名の兵と共に米陣地に突撃します。黒木大隊長と同じ砲兵出身の平櫛参謀※は米陣地に150ミリ砲を見つけました。

「見つけたぞ、さあ行くぞ!」

 突撃部隊は米第一線大隊を蹂躙し、米砲兵陣地に迫りました。先鋒隊は米軍連隊指揮所の約50メートルまで突入し、ここで食い止められてしまいます。米軍は1分間に40発以上の砲を発射し、遂に日本軍は攻撃を挫折させられました。この突撃により日本軍は4311名が戦死しました。サイパン玉砕。

 現地住民のロレンツォ・ゲレロさんはいつかきっと日本人が黒木大隊の大砲を探しに来ることを信じ、戦後何度も屑鉄屋から売ってくれという要求を退けて、十五榴一門を完全な形になるようにして、自分の屋敷内の土地に運んで残しておきました。昭和50年(1975年)3月4日、黒木大隊の慰霊碑が、その火砲の復元したものを祀って完成しました。


※ 平櫛参謀は砲弾に吹き飛ばされたが奇跡的に生き残った。


参考文献
 光人社NF文庫「サイパン戦車戦」下田四郎(著)
 光人社NF文庫「サイパン肉弾戦」平櫛孝(著)

添付画像
 昭和19年(1944年)7月7日ガラパンの町で燃えるオイルタンク。(PD)

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2010/H22.2.3/ サイパン:黒木大隊慰霊碑にて
http://www.youtube.com/watch?v=fT4jgZkjP60