ガダルカナル撤退・ケ号作戦

英霊のご加護か。奇跡的に成功した大作戦だった。


 昭和17年(1942年)8月から始まったガダルカナル戦は日本軍の補給が思うようにいかず、大量の餓死者と病死者を出していきました。一木支隊、川口支隊、第二師団、第三十八師団と逐次投入し、輸送船団もほとんどやられ遂に撤退することになります。後世の人はこんなになるまで・・・もっと早く撤退できたろう、とか戦後の自虐史観によって軍部を罵倒する言もあるでしょうが、「撤退」を決断するのは大変難しいものです。現代のビジネスの世界だって事業撤退やプロジェクト撤退、失敗による建て直しなど、それまでの苦労もありますし、けが人(降格、左遷など)、死人(クビ)を出すのを避けようとして、「何とかなるのではないか」と考えてしまうでしょう。

 12月中旬に連合艦隊司令長官山本五十六元帥は「ここは山本が愚者となって進言しよう」と言って、撤退を進言し、12月15日に作戦が協議されました。

大本営 辻政信参謀
大本営は遠大な眼光で大勢を見通すことが使命です。事前に手を打って準備するのが任務です。これだけ明瞭な戦況を知りながら、まだ決心ができないなら、みなおやめになったらよいでしょう。私は数回海軍の若い駆逐艦長空爆に晒されました。彼らはみな、『東京ホテル(海軍軍令本部)や大和ホテル(連合艦隊)のお偉い人は、駆逐艦長になってみろ』と言っていますよ」

 海軍、陸軍、カンカンガクガクの末、海軍の源田実中佐参謀の戦理にたった戦力の実力比較などが功を奏したか、3日の激論の末、撤退作戦の大枠が決まりました。

 撤退を敵に察知されないように、進攻と見せかけて大規模な航空作戦を展開。潜水艦によるカントン島を夜間砲撃したり、ニセ電文を発信しました。ガダルカナル西側にあるバイシー島へ上陸を決行するなどしています。その結果、米軍は日本軍の撤収作戦を全くしることなく、2月1日、4日、7日の三度にわたって駆逐艦で1万強の兵を撤収させることができました。

 米第一海兵師団戦闘記録
「日本軍の撤退は2月1日にはじまり4日と7日の夜に第二、第三回が実施せられた。いずれも、わが連合軍はなんらこれを察知するところがなかった。(中略) 海戦史上、キスカ及びガダルカナルからの日本軍の撤退ほど巧妙なものは、その類がない」

 米太平洋司令官ニミッツ提督
”Magnificent Performance”(あっぱれなお手並み)

 この頃、日本海軍の暗号は米側に破られていましたが、この撤収作戦は暗号電報を使いませんでした。現地では撤収に反対意見を示す司令官、参謀らが多く、中央から主要参謀がガダルカナル島まで出かけて口頭によって撤収作戦を説明したからです。

 2月7日、駆逐艦時津風ガダルカナル島のカミンボ沖に到着。大発艇が日本兵の収容に向かいました。ひとしきり収容が終わったあと、最後にもう一度、島へ向かいます。

「おーい、日本兵はいないかーっ」

「おーい、日本兵はもういないかーっ」
 ヤシの葉ずれと波の音が返ってくるばかりでした。※1

 ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死(事実上の餓死)だったと推定されています。



※1 取り残された兵もいる。


参考文献
 光人社NF文庫「ガダルカナルを生き抜いた兵士たち」土井全二郎(著)
 毎日ワンズ「ガダルカナル辻政信(著)
 光人社NF文庫「陸軍大将 今村均」秋永芳郎(著)
参考サイト
 WikiPedia「ケ号作戦」
添付画像
 壊滅した第二師団(1942年10月25日)

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