敵兵を救助せよ

有名な「敵兵を救助せよ」。


 昭和17年(1942年)2月27日から3月1日の間、日本軍はジャワ上陸作戦を展開し、インドネシアのスラバヤ沖、バタビア沖でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアのABDA艦隊と海戦が勃発しました。海戦は日本軍の圧勝で、3月1日にはセイロン島に脱出しようとしたイギリス艦、アメリカ艦を撃沈しました。このときイギリスの「エンカウンター」という駆逐艦の乗組員の救助劇が「敵兵を救助せよ」のタイトルで語られているものです。(巡洋艦エクゼターの乗組員も含まれる)

 沈没した「エンカウンター」の乗組員は約21時間漂流し、重油の海に使って多くの者が一次的に眼が見えなくなりました。兵の中には耐え切れなくなり、自殺のための劇薬を軍医に要求し始める者もいました。

 英海軍中尉フォール卿の話(平成15年に来日)
「救命浮舟に5,6人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食糧も飲料水もない有様でした。この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合軍艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な状況に置かれていました」

 そこに日本海駆逐艦の「雷(いかずち)」が現れます。雷の艦長は工藤俊作中佐で、「救助!」「取り舵いっぱい」と下令しました。連合軍艦隊を破ったとはいえ、敵潜水艦がいるかもしれず、まだ危険な海域でした。

 フォール卿
「当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えたのです」

 工藤艦長は「一番砲だけ遺し、総員敵溺者救助用意」と異例の命令を出し、縄梯子や竹竿を両弦に出しました。ところがイギリス兵の中には体力が限界に達しているものがおり、竹竿に触れると安堵したのか、力尽きて水面下に静かに沈んでいくのでした。「がんばれ!」「がんばれ!」日本兵は連呼し、この光景を見かねた二番砲塔の斉藤光一等水兵が、独断で海中に飛び込み立ち泳ぎしながら重傷のイギリス兵の身体や腕にロープを巻き始めたのです。

 フォール卿
「私は、当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見したとき、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるかとさえ思っていました。ところが『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです」

 「雷」は終日、海上に浮遊する生存者を探し続け、422人を救助し、イギリス兵の体についた油をふき取り、熱いミルクやビール、ビスケットを提供しました。そして工藤艦長はイギリス兵士官を集めて流暢な英語で次のように述べます。

 You had fought bravely.(諸官は勇敢に戦われた)
 Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.(今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである)

 フォール卿
「日本の武士道とは、勝者は奢ることなく敗者を労わり、その健闘を称えることだと思います」

 これがどれくらいのことなのかといえば、昭和18年11月に日本の病院船「ぶえのすあいれす丸」がアメリカの爆撃機B24に爆撃され沈没し、救命ボートと発動機16隻に患者、看護婦、乗組員が漂流していたところをまたB24が容赦なく機銃掃射したことや、戦艦大和が沖縄へ向かう途中に撃沈され、乗組員は漂流しているところをアメリカ軍機の機銃掃射を受けたことと比較すればわかるでしょう。また、平成10年(1998年)、天皇陛下訪英の際、イギリスの退役軍人らが反対運動をおこし、タイムズ紙に日本批判の投書しましたが、フォール卿も「タイムズ紙」に工藤艦長の行為を投書したため、日本批判の投書は精彩を欠いてしまったといいます。



参考文献
 Gakken歴史群像アーカイブ「帝国海軍 太平洋作戦史Ⅰ」
 草紙社「敵兵を救助せよ」恵隆之介(著)

添付画像
 工藤俊作中佐

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1-3敵兵を救助せよ 封印された奇跡 Japanese BUSIDO saved lives
http://www.youtube.com/watch?v=B0TIBmyTR1A


2-3敵兵を救助せよ 封印された奇跡 Japanese BUSIDO saved lives
http://www.youtube.com/watch?v=iMWy8wW1VSg


3-3敵兵を救助せよ 封印された奇跡 Japanese BUSIDO saved lives
http://www.youtube.com/watch?v=qhxMP9RrLwk