連合艦隊司令長官の戦死

山本長官の戦死の真相は?


 昭和18年2月、日本軍はガダルカナル島から撤退。4月には山本五十六連合艦隊司令長官ブーゲンビル島に視察に来ることになりました。ブーゲンビル島ラバウルより東側にあり、敵に近い場所ですが、ようやく日本軍は飛行場を整備していたのでした。この山本長官の視察は海軍の暗号が破られており、米軍のP38の待ち伏せにあった、というのは有名な話です。実は、方面軍司令官の今村均大将がブーゲンビルに2月10日に視察にきており、このときもP38の襲撃にあっています。幸い今村大将の乗った飛行機は雲の中に逃げ込むことができ、助かっています。これも暗号が破られていたための待ち伏せかもしれません。今村大将はこのときのことを山本元帥に話しています。護衛を増やすべきでした。

 山本五十六長官の視察計画は4月13日に発信され、米側に傍受され解読されました。ハワイにいた太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将は14日に報告を受け、ニューカレドニアのハルゼー中将に連絡し、長官機をP38で攻撃可能との回答をうけます。そしてワシントンに攻撃の判断を仰ぎました。ルーズベルト大統領の下した決断は「GO」でした。
 
 長官機はまずパラレに寄る予定でした。長官機は時間ピッタリにやってきました。パラレ基地の西にあるブイン基地では「長官機、参謀長機、見えまーす」と放送されます。ところが突然、「長官機交戦中!」と放送され、基地中の空気の流れが止まりました。

「ああ、長官機、落ちまーす」「参謀長機も・・・海へ・・・」

 長官機が墜落したのはブイン基地から北西方向のジャングルの中で即捜索隊が編成されます。日中でもジャングルの中は暗く、百メートルも行けば方向がわからなくなります。そこで上空をゼロ戦が現場方向へ飛んで見せて誘導しました。
 35時間かかって現場へ到着すると、機隊の半分は焼け残っており、全員の遺体がそのまま残っていました。山本長官は軍刀を両手で前に当て、前方につんのめるような格好で戦死しており、各幕僚も次々に長官に覆いかぶさるようにして重なっていたといいます。捜索隊は全員の遺体を収容して戻りました。

 山本長官の死因は「戦闘機機銃弾がこめかみから下アゴを貫通した事によるもの」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと推察されますが、P−38は12.7ミリなので頭を貫通したなら頭半分吹っ飛ぶはずです。自決した可能性もあります。
 山本長官の遺骨ははトラック諸島に一旦運ばれて、その後内地に帰還する戦艦武蔵によって日本本土に運ばれました。山本長官の死は一ヶ月以上秘匿され、5月21日の大本営発表で公になりました。同年6月5日、日比谷公園国葬が行われました。
 さすがに海軍も暗号が破られているのではないかと疑いを持ちましたが、米軍が大喜びしている様子もないので「偶然遭遇セリと判断セラル」としています。今村大将のケースとあわせて偶然は二度ないはずですが、「事なかれ主義」で処理した可能性もあります。陸軍の暗号は破られていませんでしたが、海軍の暗号が破られていると気付き、暗号の重要性を悟り、米軍の暗号解読に力をいれ、昭和19年には米軍の暗号を解き始めています。


参考文献
 光人社NF文庫「ガダルカナルを生き抜いた兵士たち」土井全二郎(著)
 光人社NF文庫「陸軍大将 今村均」秋永芳郎(著)
 ワック出版「歴史通」2010.7「我レ、ヤマモト機ヲ撃墜セリ」古森義久
 ワック出版「歴史通」2010.1「国家の風格は情報にあり」藤原正彦
添付画像
 山本長官生前最後の写真(PD)

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真実の記録-山本五十六の死(撃墜の瞬間) Real footage of Yamamoto's plane shooting