激闘!サイパン戦車隊

あの年のサイパンの夏は熱かった。


 昭和19年(1944年)6月15日、米軍がサイパンに上陸。大東亜戦争サイパン地上戦の火蓋が切って落とされました。
 戦車第九連隊に出撃命令が発令され、第四中隊がいち早くオレアイ付近に進出し、歩兵部隊と共同して上陸してくる米第二海兵師団を蹂躙しました。しかし、沖合いには米艦隊がおり、猛烈な艦砲射撃をうけ、日本軍は後退。そして再び水際逆襲に出て、日本軍は米軍の指揮所まで突入し、戦車砲は米海兵隊の幕僚をのせたLVT(上陸用舟艇)を攻撃。

 米軍は水際から追い落とされる状態になりましたが、すさまじい艦砲射撃の支援で再び態勢を立て直しました。

 歩兵第十一連隊第一大隊 伊藤勝
「夜目にも海が見える。ついに米軍を海まで追い詰めたのだ。『敵が上陸したらその夜、これを逆襲して海に追い落とせ』とは、かねてから耳にたこが出来るくらい教え込まれた。そして今、私たちはその教え通り戦って再び海の見えるところまで進撃した。(中略) 後続する日本兵も日本の戦車もいない。部隊唯一の生存将校上元少尉の指揮により、海岸から約2キロ後退し、丘陵地帯まで退って残存兵を掌握することにした」

「今や阿修羅の戦場と変わり果ててしまった情景を見て身がすくんだ。死屍累々、地獄の道とはこんな情景をいうのであろうか。しかも私達の攻撃した正面でさえ、もう米兵が陣地の構築を始めているではないか」

 この激戦で戦車第九連隊第四中隊は中隊長・吉村成夫大尉らが壮烈な戦死を遂げ全滅しました。

 翌16日、戦車第九連隊は歩兵を随伴して再び攻撃することになりました。しかし、第九連隊の五島連隊長が難色を示します。第九連隊は満州の原野で戦車独自の攻撃訓練を行ってきており、歩兵との連携プレーは訓練を積んだ機動歩兵でないと困難だったからです。第九連隊は二ヶ月前にサイパンに来たばかりでした。しかし、第四十三師団の参謀に押し切られ、16日の夜襲が決められました。

 ところが、集合の時間になっても歩兵部隊が来ない。それで約10時間の遅れで攻撃を開始しますが、この間に米軍は対戦車砲やバズーカ砲、榴弾など緊急揚陸させていました。第九連隊の戦車30両は敵めがけて突入します。狭い島なので、横列になれず、2列の縦列で突入します。米軍の照明弾が打ち上げられ、バズーカ砲で攻撃を受けます。そして米軍のM4戦車が登場します。対戦車戦闘で精強の第九連隊の戦車砲射撃は技術的にも米軍をしのいでいましたが、日本の九七式中戦車の57ミリ砲をM4の厚い装甲は跳ね返してしまいました。そして戦車第九連隊は壊滅しました。

 第九連隊の生存者30名はトラック島に移動させる予定だった軽戦車10両を使い、20日にラウラウ湾岸線に進出している米軍に再び夜襲をかけます。しかし、照明弾によってその姿があらわになった戦車隊にバズーカ砲や速射砲が打ち込まれ、全滅しました。そして7月7日、サイパン玉砕。

 サイパン戦からこの夏で67年。国を守るために戦ってくれた先人に感謝し、戦死された方々のご冥福をお祈りしたいと思います。



参考文献
 光人社NF文庫「サイパン戦車戦」下田四郎(著)
 光人社NF文庫「サイパン肉弾戦」平櫛孝(著)

添付画像
 大陸打通作戦(一号作戦)における九七式中戦車(PD)

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 戦車第九連隊 北沢今朝治准尉(27歳)の遺書

 妻よ。結婚してより日浅く今別れ行く時ぞ来れり。二人の間に愛児あらばよく賢母たれ。強く正しき教によつて、よしや無きにせば行く末はその意志にまかす。今出て行く処は知らず、何処の地からか幸を祈る。孝養の二字忘るべからず。靖国のお社に会いに来れ。桜花は美しきものぞ。われ無きの総ては妻よなせ。照文・かほりは吾子の名なり。

 霜柱踏みてぞ母は宮柱に

  いとし我子の勲功祈るか

 兄弟をくにに捧げて手柄まつ

 年老ふ母よすこやかにあれ


 お母様。今ぞ米英を撃つて粉にする時が参りました。今朝治は元気で征きました。すべては妻にお話あり、何卒その意をお聞きくだされ、妻の心に任せてください。お健やかに、いつ迄も。

 兄上。共に戦う時が来た。弟の我まま、ご厚意を謝す。何もなさず、ゆるせ。尚この上にもわれ亡き後の万事、妻の事もたのむ。

 皆様のご多幸を祈る。
 生還不期、心に決めてありし故、ひたぶるにしも、われは征きたり。


昭和のカラー映像 08 of 15
http://www.youtube.com/watch?v=wrBHAKYd0mo