沈黙の角田覚冶

日本海軍は絶好のチャンスを逃した。


 昭和19年(1944年)2月17日、千葉県の海軍香取基地では近く基地から戦地へつぎつぎと向かう予定であったので壮行会を行う予定でした。横森予備少尉らは銚子の「大進」の店へ先発で行き、準備を進めていました。ところが壮行会は急遽中止。横森予備少尉ら翌明け方には魚雷運搬を命じられ、テニアンに向かいます。

 2月17、18日にトラック島の基地が米軍に空襲され、マリアナ海域も風雲急を告げたのでした。2月21日角田覚冶中将がテニアンに赴任。角田中将は島を視察しましたが、そのあまりにも貧弱な防備施設に顔は不機嫌に歪みました。

「いったい大本営は、この一年間何をしてきたんだ!」

 テニアンの飛行場には引込線はないし、掩体壕(えんたいごう 航空機を敵の攻撃から守るための格納庫)もない。地下燃料庫も、弾薬庫の施設も貧弱で、第二、第三の飛行場をつくろうにもブルドーザー類の土木機械もない。そこへ米軍の空襲がはじまり、飛行機125機を損失してしまいました。

 そんな中、5月30、31日、新鋭の彩雲偵察機と彗星を使った偵察でトラック島から約2000キロ東のメジェロ環礁、クエゼリン環礁、に米軍機動部隊、上陸用の輸送船がゴッソリいることがわかります。既にマーシャルに敵機動部隊がいた場合、撃滅する「雄作戦」が練られており、千載一遇のチャンスがやってきたわけです。

 「見敵必戦」の闘将・角田覚冶がこれを見逃すはずがありません。テニアン基地は久々の殴りこみ攻撃の機会到来に沸きに沸きます。みな角田長官の命令を今か今かと待ちます。横森飛行士や偵察した後藤飛曹長は催促します。

「長官、攻撃命令を早く出してください」「準備はできてますよ」

 しかし、角田中将は沈黙したままです。現地の払暁には攻撃をしかけないと効果が少なく味方の損害が大きくなります。出撃時刻には制限があります。

 再び横森飛行士と偵察した後藤飛曹長が長官室に入り、催促します。

「長官、早く命令を出してください」

 それでも角田中将は沈黙したまま、バルコニーに出て、行ったり来たりするだけです。飛行場では催促の試運転の爆音が鳴り響いています。

 そして遂にタイムアップ。後藤飛曹長「飛行士、戦争は負けたよ」とつぶやき去っていきました。飛行場の爆音は全部止まり、テニアン基地は静かな夜となりました。

 実は角田中将率いる第一航空艦隊は連合艦隊の麾下(きか)に移っていたので指揮権がありませんでした。連合艦隊は「雄作戦」に航空部隊の練度が不十分なことを理由に消極的でした。「見敵必戦」の闘将・角田覚冶の心中は「沈黙」がすべてを物語っているでしょう。

 確かに、この後のマリアナ海戦を見てみれば航空部隊の練度が低いことは明らかで、米軍の対空兵器は進歩していたし、海軍の暗号は解読されており、実行しても奇襲にはならないでしょうし、日本軍の損害も大きかったでしょう。しかし、マリアナ、トラック、第三艦隊と戦力を分散しているいずれかに敵大艦隊が押し寄せて応戦するよりも、総計800機の戦力を集中して先制攻撃をかけたほうがはるかにマシだったと考えれます。たとえ1ヶ月でも2ヶ月でも敵のマリアナ上陸を遅らせれば、その分、マリアナの防御陣地構築は進みますし、陸戦も長く持ちこたえることができ、敵の戦力もそれだけ消耗します。そうすれば沖縄戦は無かったかもしれません。※1



参考文献
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
 PHP研究所「歴史街道」2008年8月
   『抗命の罪はこの角田が負う テニアン島で最後まで闘志を失わず』野村敏雄

添付画像
 クェゼリン島の戦い(PD)
 第7師団の兵士が火炎放射器を使い日本兵を陣地からいぶり出そうとしている。ほかの兵士は小銃を構え日本兵が出てくる場合に備えている。日本守備隊は秋山司令官以下玉砕。

※1 連合艦隊はこの後、ビアク作戦を展開し、テニアンから航空戦力を異動させた。しかし、マリアナに米艦隊が現れたため中止。テニアンの航空隊は米軍のサイパン上陸時に全機出撃。マリアナ海戦はその後の6月19日。結局、戦力を分散し、各個撃破された。

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