コロンボを空襲した日本軍パイロット

意外に知られていないコロンボ空襲。西亜作戦が知られると「大東亜戦争は最初から無謀だった」というウソがバレるからか?


 昭和17年(1942年)4月5日、日本連合艦隊機動部隊はセイロン島コロンボを空襲しました。セイロン島はインドの東南にある島で、イギリスの植民地でした。現在のスリランカです。
 大東亜戦争の日本の海軍の基本戦略は太平洋においては漸減邀撃戦といって米艦隊が日本近海に来れば潜水艦や航空機で消耗させ、艦隊決戦を行うというものですが、インド洋においてはイギリスが喜望岬経由でスエズ、中東石油地帯の海上輸送船をしていたのを遮断し、まずはイギリスを屈服させるというものでした。そこでセイロン島の占領を計画しましたが、方針がまとまらず、結局、英艦隊の撃滅プランのみとなってしまいました。意外にこのことは知られていません。大東亜戦争は太平洋における玉砕戦や本土空襲などの話ばかり持ち上げられます。まるで最初から「無謀だった」を刷り込むかのようであり、インド洋作戦の可能性については言及されません。

 南雲機動部隊の第二航空戦隊の空母「蒼龍」のゼロ戦飛行士だった原田要さんはコロンボ空襲に加わりました。

コロンボ上空に到着すると、情報どおり、ハリケーンが非常に沢山待っていました。
 ところで、空戦が始まって気がつきましたが、その頃はすでにイギリス軍は零戦の戦い方をある程度研究していたようでした。
 零戦の得意な巴戦には入ろうとせず、スピードに勝る彼らは、我々が近づくと、逃げていって対空砲火の届く市にまで、我々を誘導しようとするのでした。
 それで我々は追いかけていって、機銃を打ち込んで、彼らがそれを避けたところを接近していって撃ち落す、という作戦を採らざるを得ませんでした
 しかし、ついにそのフルマーも水田に不時着しました。私は、とどめを刺せるととも思ったのですが、既に戦闘能力を失っている相手をこれ以上深追いせず、他の戦闘機を撃墜しようと引き返したのでした」。

「戦闘で、私が最後に追いかけた機が「フルマー」という複座式戦闘機でした。私は背後に回りこんで、機銃を撃つのですが、相手はベテランと見えて、機体を横に滑らせるので、狙いが絞れずになかなか撃ち落せませんでした」
 原田要さんは、このときの「フルマー」の操縦士、サイクス氏に平成13年(2001年)にイギリスのジャーナリストのパーキンス氏の尽力でイギリスで再会することになりました。イギリス南西部のドーセット州でサイクス氏の自宅を尋ねると、普段の生活は全て車椅子だというサイクス氏が、原田さんを迎えるために、わざわざ立って出迎えてくれたのです。

「その姿に思わず涙が浮かび、あの時とどめを刺さずに本当に良かったと、この再会を心から喜びました」

 両氏がコロンボ空襲について話題になった時、原田さんはサイクス氏が機体を横滑りさせて、攻撃を避けていたことについて「あなたはベテランでしたね。私が考えていた、後ろに付かれたら機体を横に滑らせるという戦法をちゃんとやっていた。しかし、どうやって機体を滑らしたのですか」と聞くと、「違いますよ。あれは、あなた(が)最初に撃った弾で操縦索がやられて、機体の制御が出来なくなっていたからなんです」ということだったのです。

 この訪問の話はイギリスでも大きく取り上げられ、スリランカでも大きく取り上げられ、大反響を呼んだといいます。

 原田さんは大東亜戦争についてこう語っています。
「日本はやむに止まれず、戦争を始めました。アメリカによって経済封鎖され、石油を断たれ、最後には日本が到底受け入れられない、最後通牒と言うべき『ハル・ノート』を突きつけてきました。そのような状況で、日本は国家の存亡を懸けて戦争を始めざるを得なかったのです」

「戦争は本当に残酷です。決してやってはいけないものです。
 それでも、日本軍が南方に進撃し、結局は負けてしまいましたが、そういったことが引き金となって、アジアの国々が独立できたのだとすれば、あの戦争にも非常に意義があったのでしょう。
 ベトナムがそうですし、スリランカも植民地から脱却できたのですから、私は本当に良かったと思います」。


参考文献
 桜の花出版「日本のお陰です」桜の花出版編集部(編)
 Gakken「帝国海軍 太平洋作戦史」
   『インド洋作戦』三木原瑟一
   『対米戦略と漸減邀撃戦構想』有坂純
 光人社刊「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也(著)

添付画像
 爆撃を受ける英空母ハーミーズ(PD)

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ゼロ戦パイロットが語る戦争の真実 - Zero Fighter pilot's testimony
http://www.youtube.com/watch?v=b9NrJFvn47c