大東亜会議に出席できなかった国

マレー・インドネシアの独立が遅れたわけ。


 昭和18年(1943年)11月5日、東京で大東亜会議が開かれました。日本が主催した世界最初のアジアサミットです。残念ながらこの会議に出席できなかった国があります。マレー・インドネシアがあります。この国は独立していなかったためです。仏領インドシナ(現ベトナム)はフランスの植民地のままであり、日本はまだその状態を承認していたため、フランスのヴィシー政権からは参加希望が出ませんでした。

 マレー・インドネシアが独立していなかったのは日本の占領地行政の方針と戦争中という事情によるものでした。日本は占領地には軍政を行い、政治状態や歴史的経緯を考慮して独立ないし、自治を与え、軍政を撤廃する方針でした。これでビルマ、フィリピンが独立しています。マレー・インドネシアの独立が遅れたのは参謀本部の反対によるものでした。独立すると軍隊が通過するのにもいちいち相手国に許可を得なければならず、やっかいだったという理由です。占領地だとその手間が省けるわけです。特にインドネシアには石油があり、それをいちいち日本に運ぶのに許可をとっていたのでは間に合わないという事情です。戦争中ですから石油は非常に重要な物資です。もちろん未来永劫、占領地にするつもりなどありません。

 大東亜会議のときインドネシアからスカルノ、ハッタが来日しており、正式に参加できなかったところ、天皇陛下が皇居に招きました。インドネシアは日本が解放する前はオランダの植民地でした。インドネシア人がオランダの女王陛下に面会するなどということは絶対にあり得ないことです。しかし日本はそれを許したばかりでなく、昭和天皇スカルノ、ハッタに会うと陛下のほうからつかつかと二人に歩み寄られて握手したのです。思い浮かべただけでも感動的な場面です。

 この頃、南方特別留学生としてアジア各国から留学生が来日しており、マレーからの留学生だったラジャー・ダト・ノンチック氏らはマレー・インドネシアの代表が大東亜会議に参加出席できないことが悔しく、屈辱感を受け、代表6名が東京に滞在する10日の間、可能な限りの努力を続け、三度にわたり東條英機首相と6名の代表との会見を実現させています。その時に同席したノンチック氏自身が次のように訴えたことがありました。

「マラヤとインドネシアは同じ民族(マレー人)、同じ言葉(マレー語)、同じ宗教(イスラム教)であります。もし、日本が我々を分割するようなら、イギリスやオランダと同じことではないですか。・・・我々は物ではではありまえん。人間であり、歴史有る民族です。
 今一つの例をあげれば、果物は、どんなに分割しても果物ですが、民族は分割されれば、その民族の文化が衰微し、やがて民族の自壊自滅になります。例えば、日本で、北海道、四国、九州を本州から分割して、別々の国になったら、大日本帝国日本民族の存在が成り立ちましょうか・・・」

 ノンチック氏は堂々と発言します。これには同席していた日本政府の高官が驚き、東條首相の顔色を伺っていたところ、首相は「うむ・・・」と頷いただけでした。東條英機は筋さえ通っていれば理解のある人でしたから、怒るようなことはしませんでした。憲兵隊が「留学生の分際で生意気な」と激怒し、ノンチック氏への制裁を検討しましたが、東條首相は「あれはかわいい奴だ・・・」と言って制止したと言います。



参考文献
 「東條英樹 歴史の証言」渡部昇一
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 「日本人よありがとう」土生良樹著
添付画像
 大東亜会議の模様(ボースが演説)
  動画「大東亜会議」より http://www.youtube.com/watch?v=3mvHRVlrFUU (公開後50年以上経過しているためパブリックドメイン

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渡部昇一日本の歴史09_戦後の日本09_大東亜会議
http://www.youtube.com/watch?v=tn3OtEOpx2c