「加藤中尉は飛んでいるか?」 〜 南太平洋海戦の角田覚冶

名将の条件。


 昭和17年(1942年)10月。大東亜戦争日米戦はガダルカナルの戦闘が激化し、見敵必戦の闘将・角田覚治中将はトラック島進出の命令が下りました。角田少将率いる第二航空隊の「隼鷹(じゅんよう)」「飛鷹」「瑞鳳」は10月4日、日本内地を出発。

 10月26日、日本海軍南雲部隊と米ハルゼー部隊が激突。南太平洋海戦と呼ばれる戦いがはじまります。南雲部隊は第一次、第二次攻撃隊を発進させます。角田少将はこのとき「隼鷹」と4席の駆逐艦を指揮しており、南雲部隊とは離れていました。そのため艦載機を発進できず、「全速前進」を命じます。

 南雲機動部隊は敵機動部隊を発見して約3時間後、米空母ホーネット攻撃隊の来襲を受け、旗艦空母「翔鶴」が飛行甲板後部に3発、右舷に1発の爆弾を受け、南雲中将は指揮権を角田少将に渡しました。

角田少将
「本艦の位置は、敵機動部隊より330海里(カイリ 約600キロメートル)。まだ飛行隊の行動範囲外である。だが、本艦は全速力で飛行隊を向かえにいく。諸子の健闘を祈る」

 つまり飛行機の航続距離から考えて、まだ攻撃圏外にいるわけですが、空母を敵機動部隊に近づけるから今発艦しても帰艦可能だというものです。

 「隼鷹」の攻撃隊は米空母エンタープライズに至近弾、戦艦サウスダコタに1発、防空巡洋艦サンファンに1発命中させました。南雲部隊の攻撃隊も一部「隼鷹」に収容し、第二次攻撃隊15機を編成し発艦させます。今度はホーネットに魚雷をぶちあてました。

 さらに角田中将は第三次攻撃隊の編成を命じます。既に使えそうな機は艦爆4、戦闘機9しかなくなっていました。艦爆の飛行隊長・山口大尉と分隊長・三浦大尉は戦死してしまい、先任将校は加藤舜孝(かとうしゅんこう)中尉でした。加藤中尉はこの年の7月に「隼鷹」に乗艦したばかりで最若年の偵察将校でした。度肝を抜く敵の防御砲火にさらされ、飛行隊長、分隊長を失ったショックは大きかったでしょう。加藤中尉の艦爆隊攻撃報告はおろおろしてろくに舌が回っていないほどでした。それから数十分しかたっていないところへ、奥宮航空参謀がきて、「加藤中尉、もう一回願います」と言います。

「また行くんですか」

 なんとひどい司令官(角田)だと思ったことでしょう。せめて奥宮航空参謀にはわかってほしかったのにと恨んでいると思える返事の仕方です。そこへ戦闘機隊長の志賀大尉が割り込み、「トンちゃん(加藤中尉のあだ名)、戦争だぞ。敵にトドメを刺さなきゃ」と言います。加藤中尉は「行きます」と率直に答えました。

 第三次攻撃隊、艦爆隊4機はゼロ戦に守られながら、空母ホーネットに突撃し、「全弾命中」の報告が入りました。奥宮航空参謀は電信室の伝声管にかじりついており報告を聞いていました。すると角田少将が突然こういいます。

「加藤は飛んでいるか?・・・それはよかった」

 どうやら角田少将は加藤中尉の心中を察しており、気にかけていたようです。声なき声を聞く、これは名将の条件でありましょう。
 第三次攻撃隊は全機帰還。南太平洋海戦は日本海軍史上でも偉大なる光彩を放ち、角田覚冶の不朽の名声が刻まれることになりました。



参考文献
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
  PHP研究所「歴史街道」2008年8月
    『只今より航空戦の指揮をとる 最後の勝利を呼んだ南太平洋海戦』松田十刻
    『この人が起動艦隊を率いていれば 航空参謀が見た艦橋の司令官』奥宮正武
添付画像
 日本軍の空襲下にある空母 エンタープライズ(PD)

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