GHQ憲法作成のために葬られた近衛公

 1945年(昭和20年)9月13日、終戦直後、東條内閣の前の内閣総理大臣近衛文麿マッカーサーと会談します。このときは米軍の通訳の水準が低すぎ、実りのない内容でしたが、10月4日の会談で近衛公は日本の赤化懸念を強調します。そしてマッカーサーより憲法改正に関する案を作成することを大役を貰うことになります。

「公はいやゆる封建的勢力の出身であるが、コスモポリタンで世界の事情にも通じておられる、又、公はまだお若い。敢然として指導の陣頭に立たれよ。もし公がその周囲に自由主義分子を糾合して、憲法改正に関する提案を天下に公表せらるるならば、議会もこれについてくると思う」

 会談の席ではバーンズ国務長官より派遣されたアチソン政治顧問から私案がいくつか提示されます。そして近衛公は憲法学者の佐々木惣一郎博士に憲法作成を依頼します。ところが、10月末になりマッカーサーが「自分は近衛に憲法改正を指示した覚えはない」と否定します。そして幣原内閣のもと「憲法問題調査委員会」を設置することになります。終戦連絡中央事務局の白洲次郎は以下のように回想しています。

マッカーサーのこの”前言取り消し”談話の背景には、アメリカ国内に『新憲法を敗戦国民に作らせるとは何事』という批判が会ったとも言われるし、またこの頃、占領国側に、やがて近衛公を戦犯として逮捕しようと言う認識が固まりつつあったとも思われる。」

 実際、白洲次郎が言うような記事が10月26日にニューヨーク・タイムズ紙に載り、10月29日に朝日新聞毎日新聞がこの記事を紹介しました。
 この前言取り消しには9月初めに日本に入国したハーバート・ノーマン都留重人が関わっていました。この両者は共産主義者の同志です。ノーマンは後に共産主義者として糾弾を受け、カイロで自殺しています。ノーマンは都留の情報をもとに「戦争責任に関する覚書」を作成しています。この覚書の中はほとんど近衛批判であり以下の言葉が書かれています。

「一つ確かなこのは、彼がなんらか重要な地位を占めることをゆるされるかぎり、潜在的に可能な自由主義、民主主義的運動を阻止し挫折させてしまうことである。彼が憲法起草委員会を支配するかぎり、民主的な憲法を作成しようとするまじめな試みをすべて愚弄することになるであろう。かれが手を触れるものはみな残骸と化す」
 なんと悪意に満ちた覚書でしょうか。近衛公は昭和20年2月に昭和天皇へ上奏した際に敗戦よりも赤化阻止が課題であることを述べています。反共の急先鋒だったわけです。ノーマンや都留や潜伏していたGHQのピンカーズ(共産主義者)にとっては極めて目障りな存在だったでしょう。

 昭和20年12月6日、GHQより近衛逮捕命令が出ます。出頭の最終期限の12月16日、近衛公は巣鴨出頭を拒否。青酸カリで自決しました。その後、共産主義者たちの日本破壊を目的とする憲法白洲次郎らの抵抗むなしく成立してしまいます。



参考文献
 「われ巣鴨に出頭せず」工藤美智子著
 河出書房新書「白洲次郎」『占領秘話を知りすぎた男の回想』週刊新潮75・8・21白洲次郎
参考サイト
 WikiPedia都留重人」「ハーバート・ノーマン」「近衛文麿


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