清朝皇帝溥儀、満州へ

 1911年、辛亥革命が勃発し、清国の18省のうち、14省が独立宣言し、孫文中華民国臨時政府を樹立します。清朝の第12代皇帝宣統帝は政治取引によって退位を余儀なくされ、清朝が滅亡します。溥儀は皇帝の座を追われても北京の紫禁城(しきんじょう)に住むことが許されていましたが、1924年の共産党のクーデターが勃発し、北京に危険が迫ってきたため家庭教師のジョンストン博士とともに逃げ出し、日本大使館へ助けを求めました。芳沢公使は剛毅な人だったそうで溥儀を匿います。溥儀はその後、天津の日本租界へ移ります。
 1928年夏、蒋介石が北伐で北京を制圧したときのこと。蒋介石配下の孫殿英が清朝の王墓「東陵」を爆破して乾皇帝から西太后の墓を荒らすという暴挙を行います。副葬の金銀財宝は奪いつくされ、とくに西太后墓は石棺がひっくりかえされて遺体は屍姦されます。天津の溥儀はこれを聞いて激怒します。溥儀の祖父は漢族を「不逞の家奴」と呼びました(家奴・・・奴隷のこと)。溥儀はここでその言葉が真実と知り、清朝の再興を誓い日本に協力を求めます。その後、1932年満州事変によって満州国が建国され、溥儀は満州へ移ります。

 溥儀は関東軍が連れ出して利用したわけではありません。溥儀が自分の意思で日本大使館へ助けをもとめ、保護を受けたのです。そして先祖の土地、満州に戻りたいと考え、自分の意思で満州へ行ったのです。溥儀の家庭教師のジョンストン博士は以下のように記しています。

「11月13日、上海に戻ってみると、私的な電報で皇帝が天津を去り、満州に向かったことを知った。
 支那人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったようにみせかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤なウソである。
(中略)
 皇帝が誘拐され満州に連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話しである。皇帝に忠実で献身的な臣下の鄭は皇帝の自由を束縛する牢番ではないことを強調しておきたい。皇帝は本人の自由意思で天津を去り、満州へ向かったのであり、・・・」

 ジョンストン博士は「紫禁城の黄昏」を書いており、溥儀に密着して記しており、第一級の史料と言われています。東京裁判でも証拠として提出されていますが、当然、却下されています。連合国の都合の悪いものは却下です。日本の侵略など無いことがバレては裁判自体が成立しないからです。
 「紫禁城の黄昏」は岩波書店から出版されているそうです。上智大名誉教授の渡部昇一氏によると全体の三分の一がカットされているのだそうです。しかも中共にとって都合の悪いところばかりカットしてあるそうです。渡部氏は岩波書店にたいして「文化的犯罪」「インチキ出版物」として厳しく非難しています。我々はこうやって中共に思想侵略されているのです。



参考文献
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 「日本を賤しめる『日本嫌い』の日本人」渡部昇一
 週刊新朝09・8・13「変見自在」高山正之
参考サイト
 WikiPedia愛新覚羅溥儀

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