チベット大虐殺のはじまり

 チベットを侵略した中共軍は当初はチベット人民に対して親切で礼儀正しかったといいます。農業を手伝ったり、仏像に敬意を表していました。人を傷つけるようなことはせず、女性に触れたり、物を破壊することは一切なかったそうです。そして病院を建て、学校を建設し、道路を舗装しました。しかし、学校では子供たちにチベットは「中華民族」の一部であると教え、チベット人は中国の歴史、文化、慣習を学び、本来のアイデンティティに回帰すべきと教えます。チベット人の文化、歴史は恥ずべきものであると。中共が当初親切にしたのはチベット社会の中にもぐりこみ、チベット社会の中の社会階層を見分けるためであり、財産を誰が所有しているかを見分けるためでした。

 1955年から宗教活動が禁止されはじめ、1956年にはタムジンという人民裁判の仕組みが作られ、住民同士に密告させ人間不信の社会になります。社会的弱者とされた人に制服をあたえ、彼らには不当に搾取され続けたのだと説き、チベット人の間で憎悪の感情が生まれるように仕向けられます。

 こうした弾圧に対して1954年チベット・ゴロク族が反乱を起こし、中共軍が殲滅作戦を展開。1956年、リタン、デルゲ、カンゼ、ニャロン、ポなど、各地で反乱が発生します。1957年にはカム地区で初期から中共への抵抗を戦ってきたゲリラの英雄、ゴンボ・タシがラサに入り、反中国組織「チュシ・ガンドゥク」を結成。米国CIAの援助を受け、チベット独立をかけて全国的な戦いを展開します。1958年3月には青海アムド地区で13万人が参加する反中国民衆決起が勃発。中共軍は鎮圧作戦を行って、11万6千人を殲滅したといいます。

毛沢東
「青海反動派の反乱は大変結構。勤労人民解放のチャンスがやってきたのだ。(中略)チベットでも全国的な反乱がおこりうるからそれに備えなければならない。チベット反動派が全国的反乱を起こせば、そこの人民はそれだけ早く解放を勝ち取れるのだ」

 青海チベット人地区では反乱を防ぐ目的で5万人あまりが逮捕され、牧畜区に住むチベット人、モンゴル人の1割が逮捕され、反乱のない地区でも全人口の21%が捕らえられます。84%は誤認逮捕で拘留中にその半分が死亡し、中共もこの事実を認めているようです。




参考文献
 オークラ出版チベット大虐殺の真実」『チベット人権弾圧クロニクル』岩田温
 「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子編
   『中国のチベット・ジェノサイドの恐怖』三浦小太郎
参考サイト
 WikiPedia「カム反乱」


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