発展した満州経済

 1932年の満州国建国で日本経済と満州経済の関係が密接になります。1935年になると華北親日政権が誕生します。日本が資本と技術、経営力を提供し、石炭鉄鋼を開発し、華北が資源の供給となり、重工業、軽工業、化学工業の日本と満州消費財を供給することになります。日本、満州、北支のブロック経済が誕生します。そして経済圏の生活は向上していきます。日本が行ったのは植民地化ではなく、植民地状態の解消であったといえます。
 1937年に星野直樹岸信介が両輪となって策定した「満州産業五ヵ年計画」がスタートします。これより満州が重化学工業化していきます。自動車、製鉄、鉱業、化学工業、その他の重化学工業が「満州重工業開発株式会社」によって進められていきます。これらは石原莞爾、日産コンツエルンの鮎川義介が推進しています。野口遵はダム建設を推進し、水豊ダム、豊満ダムをつくり、水害を抑え、発電を可能にします。

 このころの日本はGNPが増加し、豊かになり「昭和モダン」という言葉に代表されるように華やかな時代でした。満州事変から戦争になり、農村部は困窮し、2・26事件がおきた「真っ暗な時代」というのは一面だけつまんで戦前を全否定する「戦後につくられたウソ」です。

 日本が満州に心血を注いだ理由の一つに世界恐慌後のブロック経済化があげられます。植民地を持つ欧米列強はブロック経済をしいて植民地をもたない国を占めだしています。
 満州の近代化をハーバード大学の経済学教授のエリザベス・シュンペーター女史は1940年に日本と満州国の産業化という900ページの大著を発表しています。そして次のように述べています。

「(欧米諸国が)排他的利益のために植民地原料を統制し、政治的目的のために原料の輸出を禁止することは危険なことである。そして市場と原料の自由が奪われるなら(対抗的に)侵略的領土拡張(aggressive territorial expantion)が行われざるを得ない」

 彼女の夫はケインズと並ぶといわれた経済学者です。満州国を日本の侵略的領土拡張としながらも満州国建設を擁護しています。日本と満州国の経済発展は同じ恐慌をくぐったアメリカよりも回復が早く、しかもそれは軍事国家を作ろうというレベルではないと主張し、立派な国づくりが行われていることを賞賛しています。

 満州国は日本敗戦とともに消滅し、13年あまりの光芒でしたが、戦後の日本で岸信介らの経済閣僚が日本の経済発展に寄与しています。満州の「あじあ号」を構想していた島安次郎の息子、島秀雄は新幹線を東京大阪間に走らせました。それを政治経済面で推進したのは石原莞爾を信奉していた国鉄総裁、十河信二とその参謀・浅原健三でした。満州は戦後の日本で生き続けていたのですね。



参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 オークラ出版「世界に愛された日本」『夢のパラダイス、満州帝国』田中秀雄著
 「歴史通」WiLL7月号『戦前という時代 − それは、つくり話か大マチガイ』日下公人
参考サイト
 WikiPedia「冀東防共自治政府」「冀察政務委員会」
 鉄道省Ⅴ 帝都を取り戻すその日まで亡命政権状態
   鉄道の日記念 満鉄仕様 http://blogs.yahoo.co.jp/romantic_of_taisho/49463413.html


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