第一次ノモンハン事件

 1938年には外蒙古(モンゴル)から満州へ166件の越境事件が起こり、1939年にはいると1月に来襲してきたソ連軍を逮捕。2月から4月にかけて17件の越境事件が起こります。
 5月4日、外蒙古兵がノモンハン地区を襲撃、5月11日、外蒙古軍がが越境、これを満州国軍が撃退。15日、東捜索隊が現地到着し、ノロ高地のソ・モ軍を撃退。渡河退却中の外蒙古軍を軽爆撃で爆撃。17日、東捜索隊はハイラルに帰還しますが、捕虜の尋問からソ・モ軍がハルハ河右岸に集結したとの情報から1,600の日満軍が出動します。スターリン外蒙古制圧の口実のために国境紛争を起こしたのです。
 これまでノモンハン事件で日本軍はソ連の機械化部隊の前に歯が立たなかったといいますが、ソ連車両の装甲は前面でも11ミリ、側面では6ミリであり、13ミリ機関銃、重機関銃でしとめることが出来たというのが事実のようです。しかもソ連戦車団は走行しながら砲撃する技術を持っておらず、戦車に歩兵を随伴していなかったため、視界の悪い鉄の棺おけ状態だったようです。
 航空機戦でもソ連軍は燦々たるものでした。

 歩兵64連隊 牧山重信氏
「5月28日、丁度11時、ふと空をみると驚いた。数十台の飛行機が戦闘を開始している。もの凄い空中戦。次々とソ連機が撃墜され、日本機が敵機を追いかける。四十数機の撃墜はこの時の大戦果。全く胸のすくような空中戦であった」

 5月31日までソ連機180機を落とし、日本側損失は0(あるいは7機)。ソ連機はは日本機に全く歯が立たず、「日本の航空機を見たら逃げろ」と、戦闘禁止命令まで出てしまいます。

 ソ連は司令官のフェクレンコ中将を更迭し、ジューコフ中将を司令官にします。このジューコフ中将は後にモスクワ防衛司令官となり、スターリングラードでドイツ軍と戦い、対ドイツ戦で逆転し、ベルリンを占領した軍人です。戦後、米国ミシガン州大学のハケット教授や新聞記者や歴史学者と会談した時、どの戦いが一番苦しかったかとの質問に即座に「ハルハ河(ノモンハン事件のこと)」と答えて周囲を驚かせ、日本軍の精強さを改めて知ったそうです。



参考文献
 「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共著
 「ノモンハン戦争」田中克彦


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