東中佐の突撃 − 第一次ノモンハン事件

 第一次ノモンハン事件で捜索隊(偵察任務のほか攻撃任務も行う)の東中佐ら19名は敵に包囲され、突撃攻撃を試みます。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹しました。東中佐は日本刀を持って突撃し、榴弾に倒れました。(池田軍医中尉の目撃談)こういった行為は戦後論調ではバカな突撃、精神主義といわれそうですが、これでソ連軍はビビッて200メートルも退却してしまいました。これがなければ目撃した池田軍医ほか負傷兵の命運も尽きていたかもしれません。

 日本軍の白兵戦はソ・モ軍にとっては恐怖であったのと、日本兵銃剣術によってバタバタやられたので、銃剣術の有効性を認識したようです。ソ連ノモンハン戦後に銃剣術を取り入れ、対ドイツ戦で使い効果をあげているようです。

 東中佐のことは外蒙古軍(モンゴル軍)の間でも知られていて「太陽の先生(ナラン・バクシ)」と言われていたようです。日本兵捕虜から聞いたのだと思います。当時、モンゴルは日本のことをナラン・オルシス(太陽の国)と呼んでいたそうです。モンゴル人が日本をどう思っていたか垣間見ることができますね。
 1990年にノモンハンの戦場の慰霊に東中佐の三女の方がおり、同行していた言語学者田中克彦氏はモンゴル軍の国境哨所長に「あの人がアズマ中佐の娘さんです」と言ったところ、所長は東中佐の娘さんを誘って馬に乗せ、草原を散歩していったそうです。



参考文献
 「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共著
 「ノモンハン戦争」田中克彦


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