長谷川清総督と愛国乙女サヨン

 昭和15年に長谷川清海軍大将が台湾総督に着任します。日露戦争のときに三笠に乗船しており、『三笠艦橋の図』で東郷平八郎海軍大将の背後に描かれた測距儀の上から軍帽だけ見えているのが長谷川清です。顔は見えませんが・・・
 台湾総督の着任式後の歓迎レセプションで上機嫌になり、給仕の少女を抱き上げて膝の上に座らせ、歓迎に対する謝辞を述べています。明らかなセクハラで、取材班が唖然としたそうです。台湾行政に暗雲が立ち込めたと思った人もいることでしょう。しかし、この長谷川提督は仁政だったと伝えられており、公務員の給料が内地人と台湾人で差別があったのをまったくの平等にしたり、日本人が通う学校と台湾人が通う学校をひとつにして国民学校と改めています。「内台一如」を実行しており、戦後二十五年たった昭和四十五年、長谷川総督の米寿の宴で台湾から続々とお祝いの人が訪れています。

 長谷川総督が台湾総督に着任する前の昭和13年に高砂族の村の駐在を務めていた田北警手のもとに海軍からの応召の通知が届きます。この頃の台湾の警察官は蕃社と呼ばれる村の日本語教師も兼任しており、田北警手は高砂族の人に愛情を持って接したことで尊敬を集め、慕われていました。
 応召の日、台風が吹き荒れており、山道を下山しなければなりませんでしたが、当時17歳だった高砂族のサヨン・ハヨンがわかれを惜しみ、嵐の中でも彼の荷物運搬を申し出ます。多くの志願者から6名が選ばれ、嵐の中を下山します。そして丸木橋をわたろうとした時、鉄砲水がサヨンを襲います。激流に飲み込まれたサヨンは一行に手を振り(サヨウナラの意)流されてしまいました。こうした献身ぶりが後に長谷川総督の耳に入り、長谷川総督は「愛国乙女サヨンの鐘」と刻印された真鍮(しんちゅう)の釣鐘をつくり、遭難場所には「愛国乙女サヨン遭難の地」という石碑を建立したのです。

 戦後は支那からきた国民党により鐘は撤去され、碑も碑銘を削った上で捨てられてしまいました。しかしその後、台湾の民主化とともに鐘は復元され、碑も、新しい碑と並んで再び建てらました。また、サヨンの住んだ村の付近に架けられた橋には「サヨン橋」という名もつけらています。



<沙蓉鐘歌>

嵐吹き巻く峰ふもと

流れ危うき丸木橋

渡るは誰ぞうるわし乙女

紅き唇 ああサヨン



晴れの戦に出でたもう

雄々し師の君懐かしや

担う荷物に歌さえ朗ら

雨は降る降る ああサヨン




参考文献
 「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸を張りなさい 蔡 焜燦著
 「日本人はとても素敵だった」楊 素秋著
参考サイト
 WikiPedia長谷川清」「サヨンの鐘」

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