満州建国

 1932年1月、関東軍作戦参謀石原莞爾満州現地人の政治能力を評価し、満蒙領有論を後退させ、独立建国論への転向を表明しました。関東州も全部返納し、日本の機関は最小限に縮小し、新国家に日本人も支那人も区別無く入って行くこと、新国家で活動したい在満邦人は国籍を移すことなど語っています。
 2月には奉天に張景恵ら、満州の要人が集まり行政委員会が組織されました。
 3月には内モンゴルとホロンボイル(バルガ族ら遊牧民の地)の代表を加え、東北行政委員会が満州国建国を宣言し、清国の皇帝溥儀が執政に就任しました。民族協和・満州国の独立完成をめざし、満州協和党(後、満州協和会)が結成されました。石原莞爾は協和会を建国の理想を護持する団体として政府の動きを監視することを重要な役割として、近い将来、関東軍は協和会に主権を譲り、満蒙の治安維持に専念すべきと考えていました。
 これらの建国の流れをみていますと、清朝の溥儀を頂点とした各地方、民族による国家建設であることがわかります。もちろん関東軍の影響力は大きいものがあります。しかし、国家がよちよちの歩きのときは寄りすがるものは必要でしょう。寄りすがられるほうも、その分の見返りが必要なのも外交上当たり前のことです。戦後の論調である、日本が得たものや有利なものだけつまんで、日本の傀儡だ、搾取だ、とする考え方には賛成できません。

 リットン調査団満州国を認めない報告を国際連盟に提出しています。しかし、内容は満州における日本の権益と貢献を認めています。他の有識者の論調も満州国を支持するものもちゃんとあります。ジョージ・プロンソン・レーは著書でこう述べています。

「日本は凡ゆる正当なる法律並びに戦争法規に基づき、支那日露戦争に参加したことに対し、支那から現金を持って賠償を受くるか或いは其の代わりに1895年に正式譲渡し後に至って還付を余儀なくせしめられた満州の土地を受くる権利があると確信するものである」
「然るに'''日本がその正当なる法律上の要求権を放棄して満州国の絶対独立および主権を承認し、その独立を擁護する事を声明したことは筆者の目から見ると侵略行為とか領土征服どころではなく、近世史上に於ける最も特筆すべき自制的および利他的行為'''であるのである」
満州国の独立および主権を現に尊重する事が日本の根本的政策であると日本は世界に表明して居るのであるから其の約束の言葉を疑い日本の真意を疑いその動機を彼是(あれこれ)いうことは米国がフィリピン独立の約束を疑うのと同一であって理由のないことである」



参考文献
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 新人物往来社歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 「日本の植民地の真実」黄文雄

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