ハルハ廟事件

 1935年(昭和10年)1月8日、ソ連指揮下の外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)軍が満州国境数キロを侵犯し、満州国の監視哨を追い、陣地を作り、人員を拉致し、馬を奪います。年末まで小競り合いの状態となります。前年11月にソモ相互援助秘密協定が結ばれており、これを公然とするよう外蒙古に圧力をかけるためスターリンが仕組んだものと言われています。

 「満蒙」という言葉を聞いたことがあると思いますが、日本が満州国を建国したときに東蒙古の一部が領土内に組み込まれていたためこう呼んでいます。また、ホロンボイルと呼ばれる満州国の北西の地方とあわせて特殊行政区域として興安省が設置されています。関東軍は伝統的な牧畜経済を守る政策をとっています。外蒙古ソ連の援助(侵略?)で人民共和国になりましたが、内蒙古漢人軍閥が農耕開拓を推し進めたため、遊牧民が暮らすための牧草地がどんどん減っていたのでした。興安省では農耕民の進入を阻止して、バルガ族、ダグール族などの遊牧文化を保護し、その伝統的行政組織には手をつけず、独自の軍隊の保有さえ自由にしています。こういった面でも関東軍が民衆に受け入れられたことがわかるでしょう。また、外蒙古ではソ連による破壊的大変革が行われたため、満州国へ脱走するケースは少なくなかったようです。外蒙古にはハルハ族、満州国にはバルガ族と分かれていましたが両民族は相反するものではありませんでした。

 ハルハ廟事件はスターリンが仕組んだものでしたが、その裏ではハルハとバルガの両民族が探りあい、交流を計ったようです。この事件を機に国境確定会議であるマンチューリ会議が開催されます。この会議の満州国側代表はリンション興安北省省長でしたが、1936年に逮捕され軍法会議にかけられ死刑となります。これは通敵行為があり、現在の歴史研究でも裏づけされているようで捏造ではないようです。このとき、満州国代表に守備隊長であるウルジン将軍もおり、事件に加担していたようですが、警備軍顧問の寺田大佐が懸命に奔走し、逮捕を免れています。マンチューリ会議の外蒙古側はサンボー全軍総司令官副官でしたが、この人もソ連から代表解任され、その後処刑されました。
 ウルジン将軍の軍事顧問であった岡本俊雄氏は次のように述懐しています。
「静かに満州国という国の枠を離れて蒙古人の立場で考えた場合どうだろうか。蒙古人の如く常に異民族に征服されて来た彼等にとって、誰にも侵されない、蒙古人は蒙古人だけの国をもちたい。つくりたい、という理想を彼等がもっておっても当然のことである」
 日本人にはこういった感情が強かったようです。リンション興安北省省長が逮捕されたとき他に五名が死刑判決となりましたが、二名は減刑となっています。




参考文献
 「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共著
 「ノモンハン戦争」田中克彦
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子

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