満州事変

 1931年9月18日、関東軍奉天郊外の柳条湖で満鉄路線を爆破。満州事変が勃発します。

 このとき、関東軍の兵力は仙台第二師団を基幹とする14,500人でした。これも条約によって満州在留邦人23万の生命と財産を守るために決められた数が駐屯していました。一方、張学良のひきいる軍閥満州鉄道沿線に約5万人、その他の地域に21万5千人、合計26万5千人の勢力です。さらに軍閥の予算の80%を軍事費として使い(行政には20%だけ)、近代的装備を保有していました。

 張学良軍は匪賊と同じで昼間でも訓練のないときは民間住宅に押し入り、ゆすり、たかり、強姦などを行って住民から憎悪と反感を買っていました。夜間になると武器を持って営外にでて悪行を行っていたため、張学良は昼間の演習が済むと夜間は兵士から銃器一切をとりあげて、武器庫に収めてしまうことが多くありました。関東軍作戦参謀石原莞爾らはこれに目をつけ、9月18日夜間に柳条湖で満鉄路線を爆破し、犯人は張学良軍の反日行動であるとして、3600の兵力で張学良と部下6700名が居る北大営に30センチ砲をぶっ放します。張学良らは武器を倉庫にしまっていたため、十分に反撃できず、大半はほうほうの態で逃げ出しました。

 張学良は錦州に拠点を移します。関東軍は幣原弱腰外交の不拡大方針を無視し、錦州を爆撃。またたくまに南満州の主要都市を占領。事前に石原莞爾朝鮮軍の参謀と連絡を重ねており、朝鮮軍も出動させ、北満州へ進出。11月には馬占山軍と激しい戦闘の結果、黒龍江省チチハルを占領、翌年2月ハルビンを占領します。

 この満州事変のところだけつまんでみてしまうと政府の抑止を聞かずに関東軍が暴走したという話になります。多くの人はそう聞かされ日本の侵略行為として自虐史観を持っているのではないでしょうか。しかし、軍閥と国民党の不法行為、執拗な嫌がらせの流れを見てみれば、日本人居留民の生命と財産を守るためには武力に訴えるしかないことがわかります。直に被害をうけてきた民衆、満州青年連盟は関東軍を支持しています。また満州支那のものではありませんでした。満州族のものです。ですから支那から奪ったのではありません。満州の民衆は関東軍を敵視していません。日露戦争以降、民衆は日本軍の規律の正しさを見てきており、ロシアや軍閥などの横暴を見てきています。民衆にとって日本軍は解放軍として迎え入れられていました。



参考文献
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 「騙しの交渉術」杉山徹宗著
 新人物往来社歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 「日本の植民地の真実」黄文雄

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