第二次ノモンハン事件

 1939年(昭和14年)6月からの戦闘が第二次ノモンハン事件と呼ばれるものです。
 6月17日、ソ連軍司令官ジューコフは越境禁止命令を解除し、満州国諸点を爆撃。地上軍は満州軍を攻撃。日本軍は6月27日にハルハ河を越えて蒙古領内のタムスク飛行場を爆撃。不拡大方針の大本営は驚き、これより飛行制限するよう命令が発せられます。
 7月2日に日本軍はハルハ河を渡り、ソ連戦車団と大激戦を繰り広げます。前にも書きましたが、ソ連車両の装甲は前面でも11ミリ、側面では6ミリであり、13ミリ機関銃、重機関銃でしとめることが出来たばかりか、たまたま日本のトラックが戦車に追われたとき、荷台のガソリン缶を落としたら戦車にあたり燃え出したことから、火炎瓶でも軽く炎上することがわかり、日本歩兵がガソリンを入れたビンを熱いエンジンにぶつけて炎上させました。戦車はそもそも視界が悪く、ソ連戦車団は歩兵を伴っておらず、走行射撃の技術がないため、火炎瓶攻撃の餌食になりました。また、装甲が薄いため日本の百発百中の速射砲に簡単にやられたのです。

 三輪義男伍長
「日本の速射砲はよく当たりますね。威力があると思いましたよ。撃った弾は全部命中したように思います。パっと火が見えたと思うと黒い煙が上がる。弾が戦車に命中したのが見えますからね。ほとんどやっつけたように思います。」

 しかもソ連軍は戦車団の先頭に指揮官が乗っていたためこれをやっつけるとあとは、司令塔を失い、右往左往するので、装甲の薄い側面を見せはじめ、こうなると速射砲の独壇場になったと日本兵士が語っています。最終的にソ連の戦車は800台以上破壊されました。
 
 ノモンハン戦の記録についてはソ連側には誇張や捏造が多いようで、これは良い戦果をあげられないと粛清の対象になる恐怖から戦果を捏造したと考えられます。日本側も情報不足で大敗したと錯覚したようですが、実際にはソ連軍7万7千(23万とも)に対して関東軍3万で互角(以上?)でした。大東亜戦争終戦後も戦前全否定、日本軍否定の中、東京裁判史観を持つ蛸壺歴史学者たちが事実を無視して日本軍大敗論を語り継いでいったのでしょう。

 ノモンハン戦のあまりの大打撃にスターリンは焦り、8月15日にドイツに停戦の仲介を依頼します。そして8月20日に一挙にノモンハン大攻勢をかけて停戦にもっていこうとします。日本軍は増強して大反撃計画をたて、8月23日第七師団の派遣を決定。同日の独ソ不可侵条約はドイツに停戦交渉を頼むための譲歩であったと思われます。日本軍は9月上旬大反撃を見込みます。スターリンに日本軍が10個師団を増強するとの情報が入り、スターリンは1個師団でも大変なのに10個師団も来られてはと震え上がります。
 9月3日より日本軍は8師団一部をハイラルへ、騎兵第三旅団をジャライノールへ向かわせ、第二飛行団を増強します。9月7日に関東軍の植田大将以下が更迭となり、この情報をキャッチしたソ連は日本軍の大反撃が始まる前触れと思い、10日には原状回復の条件を東郷大使に提示。9月14日に東郷大使は最終案を提示し、これを飲まねば停戦しない、と通告。9月15日ソ連は受諾し停戦となります。



参考文献
 「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共著
 「ノモンハン戦争」田中克彦


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