大東亜戦争・インド・ビルマ

アウンサンの裏切り 〜 ビルマ

大東亜戦争終盤の昭和19年(1944年)8月、ビルマで抗日組織の秘密組織。反ファシスト人民自由連盟が結成されました。この頃、日本はインパール作戦で大失敗しています。日本の旗色が悪くなってきたらビルマの独立はどうなるかわかりません。ビルマ国…

ビルマ戦線の日本軍の強弱

日本軍もピンキリだった。 ビルマ戦線の日本軍兵士の記録を読んでいると兵団の強弱や地域性についてよく書かれています。強い兵は56師団(龍兵団)18師団(菊兵団)で九州の兵団です。弱いのが53師団(安兵団)、15師団(祭兵団)。 アーロン収容所…

北部ビルマ戦線・死守命令と玉砕

陸戦でも玉砕があった。 昭和18年(1943年)1月、カサブランカ会談が開かれ、米のフランクリン・ルーズベルト大統領と英のウィンストン・チャーチル首相は、同年11月頃からのビルマにおける本格的反攻に合意しました。英陸軍は戦力を回復しつつあり、空軍…

ビルマ独立宣言

大東亜戦争ビルマ戦で日本軍は快進撃し、昭和17年(1942年)3月9日にラングーン(現ヤンゴン)が陥落します。ビルマ独立を支援する日本軍の特務機関・南機関、鈴木大佐はビルマ人と接してきた中で一刻もはやくビルマ独立宣言を行うことが必要でると…

ラングーン陥落 〜 ビルマ戦

ビルマ独立の歴史。日本が大きく関わっていました。 昭和17年(1942年)1月21日、東条英機首相 「日本のビルマ進軍の目的は全ビルマ国民を、搾取と抑圧から解放し、彼らの独立を支持することにある」(帝国議会にて声明) ビルマ独立を支援する日本…

牛島中将とビルマ人士官候補生

牛島満中将というと沖縄戦の防衛軍司令官として知られていますが、牛島中将は支那戦線で猛将の名をとどろかせ、沖縄戦に出向くまで陸軍予科士官学校校長、陸軍戸山学校校長(兼任)、陸軍公主嶺学校校長(満州)、そして昭和17年(1942年)8月8日陸軍士官…

ビルマ独立義勇軍

昭和16年(1941年)12月8日、日米が開戦。ビルマ国内各所において武力による反英暴動を起こすことを計画していた南機関は予定を変更し、タイのバンコクでビルマ独立義勇軍(B・I・A)を編成。200名のビルマ人志願兵が加わります。司令官の鈴木大…

ビルマ独立に命をかけた日本人たち

先月、ネットニュースを眺めていると陸軍中野学校のことが出ており、例によって悪意に満ちた書き方になっていました。陸軍中野学校は諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍の軍学校です。インド国民軍を結成させたマレー…

大東亜戦争時のビルマ人とインド人

会田雄次著「アーロン収容所」にはインド人とビルマ人の仲が悪かったことが書かれています。会田氏が歩哨にたっているとインド兵が逃げてくる。武装していないので非番で休暇をとっていたと思われ、服は破け、顔を打たれたらしく血が流れていました。追いか…

ジャイ・ヒンド!(インド万歳)

昭和20年8月、日本の敗戦にともないインド国民軍(INA)も連合軍に降伏しました。英国は国民軍兵士を裁判にかけ反逆罪で処罰しようとしていました。ところが、戦時中は厳しい検閲によってチャンドラ・ボース、インド国民軍の実態は明らかにされていま…

チェロ・デリー(進め、デリーへ) 〜 インパール作戦

昭和19年(1944年)3月20日自由インド政府チャンドラ・ボース 「インド国民軍はいまや攻撃を開始し、日本帝国陸軍の協力を得て、両群は肩を並べて共同の敵、アメリカ、イギリスおよびその連合国に対し、共同作戦を進めつつあり。外国侵略軍をインド…

大東亜戦争時のビルマ人

加藤隼戦闘隊の安田曹長は昭和17年のラシオ攻略のとき、被弾し、敵地の中に不時着しています。そこから120キロを歩き通して帰還しますが、このとき彼を助けたのはビルマ人でした。 安田曹長は不時着後、ビルマ人部落を見つけて入っていくとビルマ人は驚…

チャンドラ・ボース

平成19年(2007年)8月、安倍総理(当時)はインドを訪問し、インド国民軍を率いて日本と一緒に戦ったチャンドラ・ボースの遺族と会いました。安倍総理「英国統治からの独立運動を主導したボース氏の強い意志に、多くの日本人が深く感動している」ボ…

中村屋のボース

ラース・ビハーリー・ボース、1886年生まれ、西ベンガル州ブルドワンで生まれました。チャンドラ・ボースとともにインド独立活動を行った人です。 ボースは1912年、反英テロを敢行し、当局から逃れて同志のグプタとともに日本に脱出しました。そして…

ディマプールへ進撃せよ 〜 インパール作戦

「コヒマ占領後、引き続きディマプールに突進してもらいたい」 昭和19年(1944年)ビルマのインパール作戦で15軍牟田口司令官からコヒマを攻略する31師団へこの司令が出されます。しかし、これはインパール作戦計画にはないものでした。31師団の…

第31師団の独断撤退 〜 インパール作戦

昭和19年(1944年)のインパール作戦で31師団佐藤 幸徳(さとう こうとく)師団長は補給がないことを理由に6月2日にコヒマから独断で撤退してしまいます。ビルマ方面司令部宛 「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折…

ビシェンプール攻防 〜 インパール作戦

昭和19年(1944年)5月、インパール作戦の日本軍第33師団インパール南のビシェンプールを攻撃します。この地を攻略しなければインパールへは到達できません。「この突撃ならざれば、原隊に見ゆる(まみゆる)ことなかれ」 突撃大隊は何度か市街に突…

インパール戦のグルカ兵

グルカ兵とは、ネパール山岳民族から構成される戦闘集団の呼称です。19世紀のネパールとイギリス東インド会社軍との3度にわたる戦争の停戦条約が締結される際に、ネパール山岳民族特有の尚武の気性と白兵戦能力、宗教的な制約が小さい点に目をつけたイギ…

インパール作戦は無謀だったのか

インパール作戦は補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦とよく言われます。しかし、作戦そのものはアラカン山脈を越えて奇襲攻撃をかけるもので、この一撃の成否であり、それまでの補給が間に合えばよい話です。 33師団は自動車輸送が期待できましたが、3…

反対がほとんどだったインパール作戦

インパール作戦は1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。 この背景にはチャンドラ・ボースら自由インド国民軍「インド解放」の動きも後押しし…

ビルマの夜明けへ

1940年11月23日タイとフランス植民地軍との国境紛争が勃発。当初攻勢だったタイ軍でしたが、フランスが重火器を導入し、一転劣勢となり押し捲られます。ここで日本が仲介し、1941年5月8日に東京条約を結びタイはラオスメコン川右岸及びカンボ…

ビルマの独立への思い

バー・モウ著の「ビルマの夜明け」を買おうと思ったら古書で9,000円もするのでビックリ。買うのはあきらめました。 英国の植民地となったビルマでは1905年の日露戦争の映画が上映されていました。そうですね、日本と英国は同盟国だったのですから上映さ…

英国の侵略をうけたビルマ

19世紀当初、ビルマ(現ミャンマー)は清国を宗主国としていました。しかし、英国の侵略を受けます。1824にビルマ戦争の火蓋が切って落とされます。清国は援軍を出し、ビルマ軍とともに英国と戦いますが、敗れ領土の一部をとられてしまいます。 185…