インパール戦のグルカ兵

 グルカ兵とは、ネパール山岳民族から構成される戦闘集団の呼称です。19世紀のネパールとイギリス東インド会社軍との3度にわたる戦争の停戦条約が締結される際に、ネパール山岳民族特有の尚武の気性と白兵戦能力、宗教的な制約が小さい点に目をつけたイギリス東インド会社は、グルカ兵が傭兵として同社の軍に志願することをネパールに認めさせました。山岳民族で勇猛という点では台湾の高砂族と似ているでしょうか。グルカ兵は大東亜戦争インパール作戦で日本軍と交戦しています。

 インパール作戦で日本軍は戦局打開のためにたびたび突撃戦法を取りましたが、これにグルカ兵が立ちはだかり自動小銃を至近距離で連続発射します。インド兵の場合は恐れて逃げてしまうので、英国兵はインド兵の足を立ち木に縛り付けていましたが、グルカ兵は勇猛なのでそうする必要がなく、一歩も引かなかったといいます。これで日本軍は被害を拡大しました。

 グルカ兵は勇猛だけでなく、ご主人様(英国人)に忠実でしかも愚直といいます。終戦となりビルマ日本兵は収容所に収容されますが、英軍から「収容所の鉄柵に接近すると逃亡の意志ありと見なして射殺す」と通知があります。だいたいこういうのは訓示みたいなものですが、グルカ兵はまじめすぎて自動小銃日本兵捕虜を撃ち殺してしまいます。

 会田雄次著「アーロン収容所」ではグルカ兵に戦争中も収容所でもやられたのである復讐をしたことが書かれています。作業場に電気溶接をやるところがあり、そこにグルカ兵を連れ込みます。溶接作業を見てグルカ兵は大いに好奇心を持ち、「カクネ、カクネ(面白い、面白い)」といって見飽きるまで強烈な閃光をじっと見つめ、しばらくしてぶっ倒れます。これを次の日本兵捕虜作業員にも申し送り、約10日も続けたそうです。さすがに英軍が調査してグルカ兵に見学禁止を言いわたしました。このほかグルカ兵は「疑う」ということを知らないため、日本兵捕虜が「美しい女がいた」とウソをつくと、グルカ兵はそっちのほうに走って探し、帰ってきて「いない」というと、日本兵がさらに「もっとあっちのほうだ」と更にウソをつくと、何度でも探しにいったそうです。会田氏は日本兵を撃ったのはグルカ兵のせいではないのに悪いことをしたな、と書いています。



参考文献
 「真実のインパール」平久保正男著
 「アーロン収容所」会田雄次
参考サイト
 WikiPedia「グルカ兵」

添付画像
 19世紀のグルカ兵(PD)

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