北部ビルマ戦線・死守命令と玉砕

陸戦でも玉砕があった。


 昭和18年(1943年)1月、カサブランカ会談が開かれ、米のフランクリン・ルーズベルト大統領と英のウィンストン・チャーチル首相は、同年11月頃からのビルマにおける本格的反攻に合意しました。英陸軍は戦力を回復しつつあり、空軍は日本軍に対する航空優勢を確立していきました。英軍はインパール方面および南西沿岸部から、米中連合軍はフーコンおよびビルマルート雲南方面からの反攻を開始します。

 この頃、日本軍は18師団(菊兵団)がレド航路の重要な拠点を守備しており、56師団(龍兵団)がシナ領を守備していました。米英支連合軍は要衝ミートキーナを攻撃します。昭和19年5月17日、ガラハッド部隊を中心とする空挺部隊と地上部隊がミイトキーナ郊外の飛行場を急襲し奪取します。ミートキーナは丸山房安大佐の指揮する歩兵第114連隊が守備しており、各地に兵を分散していたため、56師団の水上少将を派遣します。第33軍作戦参謀辻政信大佐は「水上少将はミイトキーナを死守すべし」という個人宛の死守命令を送りました。日本守備隊は孤立無援のままよく戦いますが、7月下旬には弾も食糧も数日で皆無になろうとしており、玉砕を待つばかりとなりました。ここで水上少将はミートキーナ脱出を命じます。そして自身は自決したのです。「水上少将はミイトキーナを死守すべし」という個人宛の死守命令を守ったわけです。
 
 一方、拉孟・騰越では金光恵次郎少佐以下1,270名の守備隊は、41,000名の支那軍の攻撃をたびたび撃退しますが、9月7日、木下正巳中尉と兵2名を報告のため脱出させた後、玉砕。騰越は、連隊長・蔵重康美大佐の指揮する歩兵第148連隊が守備していました。6月27日に戦闘が開始され、守備兵力は2,025名、攻囲する支那軍は49,600名でした。蔵重隊長は8月13日に戦死し、大田正人大尉が代わって指揮を取り、8月下旬以降市街戦が展開され、守備隊は9月13日に玉砕しました。
 この30対1という兵力で奮戦した日本軍には支那国民党の蒋介石も驚きと焦りを覚えて作戦中に以下の訓電を発しています。

雲南方面における敵日本軍は、拉孟・騰越においては、わが優秀近代化の国軍をもってしても、尚孤塁を死守しあり。かく如くんば、日本軍は一兵に至るまで、死守するものと判断せらる。騰越の敵頑たりといえども鬼神にはあらず。然るに戦況は遅々として進展せず」
「拉孟・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範としてわが国軍の名誉を失墜せざらんことを望む」

 
 この頃のビルマ戦線の軍隊の雰囲気を丸山軍医中尉が以下のように回想しています。
「とにかく、あのときの軍隊の雰囲気は、牟田口(軍司令官)を殺せ、丸山(ミートキーナ連隊長)を殺せの怨嗟の声が満ちていた。軍隊は階級社会だから、上に立つものが勝手なことをしても手出しができないから怨嗟の声が出る。丸山大佐のそばには慰安所の女性がついていたし、あの激戦の中、食糧も乏しい中で食事に三菜はつけなければならないといわれていた」

 またミートキーナで水上少将が自決する前にいろいろな電報が届けられており、特別電報で「貴官を二階級特進せしむ」という電報に対して少将は「香典が参りましたね」と述べ、さらに「貴官を以後、軍神と称せしむ」という電報が来ると「弔詞も来ましたね」と述べたといいます。なんとも冷え冷えとした話です。本来、軍人ならありがたく頂戴し、武士の本懐を遂げようと思うものでしょうが、それほどこのビルマ方面でTOPに立つ軍人の質が悪かったということでしょう。
 
 ただ、ミートキーナで部下の不評を買った丸山大佐はこの後、人が変わったといわれ、シッタン防衛線で取り残された日本軍部隊を救出するために先頭に立ち指揮をとり、後にこの勇戦に触れられても謙虚に答えるだけだったといいます。



参考文献
 「死守命令」田中稔
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 
参考サイト
 WikiPediaビルマの戦い」
 
添付画像
 ビルマルートの空撮画像(PD)
 
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