チャンドラ・ボース

 平成19年(2007年)8月、安倍総理(当時)はインドを訪問し、インド国民軍を率いて日本と一緒に戦ったチャンドラ・ボースの遺族と会いました。

安倍総理「英国統治からの独立運動を主導したボース氏の強い意志に、多くの日本人が深く感動している」

ボースの姪にあたるクリシュナ・ボースさん、
「日本の人々がボースの活躍を覚えていてくれるなら、私たちインド人も、英国の植民地支配に抵抗するため、ボースがインド国民軍を組織したことを支援したのが日本だったことを思い出すべきだ」

 マスコミはほとんど報道しませんでした。

 1919年、全学生中2番の成績でコルカタ大学哲学科を卒業したチャンドラ・ボースケンブリッジ大学に進学します。翌1920年9月には最難関とされるインド高等文官試験に合格。しかし、彼はインド独立運動に人生を捧げることに決意します。

 1941年、ボースはベルリンに潜入。駐独陸軍武官補佐官の山本敏大差と大島浩大使はボースと接触し、1943年2月、ボースはUボートでひそかにフランス大西洋岸ブレストを出港し、インド洋で日本の伊29潜水艦に乗り換え、5月16日に東京に到着します。ビハーリー・ボースはインド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権をチャンドラ・ボースに移譲し、ビハーリー・ボースは名誉総裁への就任することになります。

 インド国民軍は昭和19年にインパール作戦で「チェロ・デリー(進めデリーへ)」を合言葉に日本軍とともに戦うことになります。ただ、すんなりとはいかず、ビルマ人はボースの自由インド臨時政府をラングーンに置くことを拒否します※1。英国はインド人を手先に使ってビルマ人を痛みつけてきたからです。ビルマ国防軍のアウンサンも父をインド人に殺されました。インドのライフル部隊はビルマ人を殺しまくった。このインド人とビルマ人の対立は結構根が深く、戦後、ビルマでの日本兵抑留者の周りでも頻繁に対立があり、抗争などがあると「マスター(日本兵のこと)はこっちに味方してくれ」と双方から言われて困ったそうです。

 結局、インパール作戦ではビルマ軍はそっぽを向き、自由インド軍の声に同調してくる英印軍はおらず※2、苦戦し、くしの歯がこぼれるように脱落していきました。

 日本敗戦を知ったボースはインド独立闘争の継続を帰してソ連行きを決断。1945年(昭和20年)8月17日、サイゴンからツーラン(ダナン)を経由して台北の松山飛行場に到着します。しかし、ボースを乗せた陸軍97式重爆は台北を飛び立った直後に墜落してしまいます。全身火傷を負ったボースは陸軍病院で治療を受けますが、同日午後八時に帰らぬ人となりました。臨終間近の床でボースはこういいました。

天皇陛下と寺内さん(南方軍司令官)によろしく」
「同士があとで来るから」



 1947年8月15日、インドは独立します。
 1986年5月25日、ボースの等身大の像がコルカタのスレンドラナート公園に建立されました。


 ※1 ラングーンから自由インド放送を通じてインド国内の同志へ呼びかけている話もある。
 ※2 一個大隊が寝返ったというエピソードもある。



参考文献
 「日本はどれほどいい国か」日下公人高山正之
 オークラ出版「世界に愛された日本」『二人のボースとインド独立の理想』坪内隆彦
 「歴史通」WiLL7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 「アーロン収容所」会田雄次
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編

参考サイト
 WikiPedia「スバス・チャンドラ・ボース
 アジアにおける日本と大東亜戦争 http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e.html

添付写真
 大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース(PD)

Delhi chalo -Subhas Chandra Bose-
 http://www.youtube.com/watch?v=EQZ_B8D86ms
http://http://www.youtube.com/watch?v=EQZ_B8D86ms

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