第31師団の独断撤退 〜 インパール作戦

 昭和19年(1944年)のインパール作戦で31師団佐藤 幸徳(さとう こうとく)師団長は補給がないことを理由に6月2日にコヒマから独断で撤退してしまいます。

ビルマ方面司令部宛
「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」

 現在の評価では無謀な作戦だからやむなし、という佐藤擁護論が主流でしょうか。

 ただ、佐藤中将は師団の支隊である宮崎繁三郎隊を置いてきぼりにしています。宮崎隊は6月22日までコヒマ〜インパール道の遮断し、踏ん張っています。

 先に撤退した佐藤師団はモンスーンの季節になった泥んこの道でマラリア脚気、アミーバ赤痢で苦しみ歩けぬようになり自決するもの、部隊から離脱するものが続出します。それでも残り少なくなった牛を殺して食べたり、山中でタケノコを取って退却行軍しました。1ヶ月かけてチンドウィン河にたどり着きますが、雨季の濁流によって体力が落ちた兵は飲まれて流されてしまいます。


 7月5日に宮崎支隊に撤退命令がでます。殿(しんがり)です。31師団が糧食を求めて撤退した後を行くのです。籾ひとつ残っていない死の退却路です。

 宮崎少将は各部隊に以下を伝達します。

一、後退途中、まだ息のある行き倒れの兵にあったら、必ず救うこと。
二、既に死亡している者に対しては、部隊名と姓名を控えた後、道路から見えないところに死体を運ぶか、または深く埋めること。

「よいか。餓死した死体を敵に写真に撮られて、宣伝材料に使われないよう。日本軍の退却は、このように立派だということを、敵に教えることも大切だが、もう一つ、戦友は絶対に捨てない、という考え方を確立することが、一番大切なのだ。軍隊として一番大切なことであるので、いま命令した二項目は、わが部隊がたとえ、それを実行することに拠って全滅してもよい。絶対に厳守して実行してほしい」 


31師団参加兵力 約15,000
死亡 : 7,500(戦死4,000 戦病死3,500)
戦傷、戦病によって部隊を離れたもの 4,500



参考文献
 「インパール作戦」土門周平著
 「真実のインパール」平久保正男著

参考サイト
 WikiPedia佐藤幸徳

添付写真
 宮崎繁三郎を描いた著書の表紙より


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